はじめに

大塚家具は12月3日、11月の店舗売上高が前年同月に比べて4.1%増だったと公表しました。10月も同7.7%増だったので、2ヵ月連続の前年超えです。9月まで前年同月の売上高を14ヵ月連続で下回っていたので、減収基調にようやく歯止めがかけられたようにも思われます。

しかし、10月と11月の増収は、最大8割引きの「在庫一掃セール」が大きく貢献したもの。まだ窮地を脱したと判断できそうにありません。12月6日には、創業の地である埼玉県春日部市の土地を売却したことを発表しています。

実は同社の決算短信には、2018年1~6月期決算から「継続企業の前提に関する疑義」の注記が付けられています。将来にわたって事業を継続していけるか、重要な疑義を生じさせる事象が存在することを、投資家に注意喚起するものです。

業績が赤字続きであることに加え、株主への配当金の大判振る舞いを続けたため、バランスシート(貸借対照表)にたくさんあった現金は、あっという間に減少しました。何が間違っていたのでしょうか。


娘・久美子氏が間違った3つのポイント

大塚家具は2015年3月の株主総会で、父と娘が経営権をめぐり、激しい委任状争奪戦を展開したことで有名です。結果、娘の大塚久美子社長が勝利しました。父で創業者の大塚勝久元会長は敗北し、大塚家具を去ることとなりました。

あれから4年も経たないうちに、大塚家具は凋落、存続を危ぶまれる存在となりました。「父に背いた娘が経営を誤った」「父が経営を続けていれば、こうはならなかった」と久美子社長へのバッシングが強まっていますが、私はそうした見方に違和感を覚えます。

父が経営しても、娘が経営しても、大塚家具を立て直すことはできなかった――。結論から言うと、私はそのように考えています(2015年のレポートでもそう書いています)。

ニトリ、大塚家具を長年にわたり分析してきたアナリストとして、父の戦略でも、娘の戦略でも、大塚家具の構造問題を解決できないと考えていました。最初に、久美子社長のどこが間違っていたか、3点挙げます。

(1)「中価格帯」の家具を充実させる戦略を取った

大塚家具は2000年代以降、創業者で父の勝久氏の下で、「丁寧な接客で、高価格帯の家具をまとめて売る」戦略をとっていましたが、中国製の低価格家具を扱うニトリなどに押されて、苦戦が続いていました。

娘の久美子氏は、父の経営方針に反対で、「低価格の家具を売っていかないと生き残れない」と考えていました。当時、日本株のファンドマネ-ジャーだった私には、大塚家具のアナリスト向け店舗見学会で久美子氏が語っていた言葉が印象的でした。

「100万円を超える芸術品のような家具から、中国製の普及価格(低価格)家具まで一通り案内すると、ほとんどのお客さまが普及価格帯の家具を買っていく」と語っていました。久美子氏は、確かに「大塚家具はこのままではダメだ」とわかっていたと思います。

この頃、アナリスト向けの説明会では、常に久美子氏が説明をしていました。大塚家具の経営の問題点を的確に指摘し、とるべき戦略を語っていました。カリスマ性のある父・勝久氏の経営を、久美子氏が戦略面でサポートする理想的な経営体制に見えました。

2015年3月の委任状争奪戦では、機関投資家がほとんど久美子氏支持に回りました。それは、久美子氏の経営戦略説明を長年にわたり、聞いていたからだと思います。

ところが、委任状争奪戦に勝った久美子氏が打ち出したのは「中価格帯」戦略でした。そんな中途半端な戦略で、低価格家具で成長するニトリに勝てるはずはありません。高価格帯戦略を続けていた大塚家具が、いきなり低価格に経営シフトするのは、もはや手遅れだったのです。

商品調達から、店舗運営コスト、物流網など、全部を変えなければ、低価格戦略には移行できません。それに気づいて出てきた妥協策が、「中価格」戦略だったと思います。でも、そんな戦略では業績を回復させることはできませんでした。

(2)「住居製品」全般への展開が遅れた

大塚家具は、低価格のニトリやIKEAに追い詰められたと思われていますが、実態は異なります。家具市場そのものが縮小する時代にあって、家具だけで売り上げを伸ばすことはできなくなっていたのです。

ニトリは低価格家具で成長しているといわれていますが、実態はまったく異なります。ニトリの店舗に行けばわかります。成長を牽引しているのは、家具ではなく、住居製品全般です。消費者に驚きを与える住居製品を次々と開発し、ヒットを飛ばしていることが、ニトリの成長を支えているのです。

面積の狭い日本のマンションや住宅で、家具は敬遠される時代となっています。簡単に設置できるホームセンターの組み立て家具で済ませる時代となっています。低価格でも高価格でも、家具だけでは生き残りが難しい時代になりつつありました。

(3)投資家への配当金の大判振る舞いを続けた

経営悪化が続く中、大塚家具は早々に配当金を大幅減額しなければなりませんでした。ところが、久美子社長は配当金の大判振る舞いを続けました。勝久氏との委任状争奪戦で、勝久氏と久美子氏は配当金を大幅に増やすことをともに公約したためです。

経営権を取ってから配当金を引き下げるのは、非常に格好悪いことです。それでも、会社を守るために、久美子社長は配当金減額を決断すべきでした。その決断が遅れたために、会社の現金がどんどん減少し、あっと言う間に経営危機に陥りました。

父親なら大塚家具を救えたのか

続いて、勝久氏の問題点を述べます。父の勝久氏は、大塚家具を去った後、高級家具を扱う「匠大塚」を立ち上げ、成功させています。その事実から、「勝久氏が経営していれば、大塚家具はうまく行ったはず」という人もいます。私はそうは考えません。

同氏の戦略は企業規模を縮小した匠大塚でやったから成功した、と考えます。高級家具を求める市場は、確かにあります。ホテルなどの法人需要などです。ただし、それはニッチ市場。匠大塚でやるにはちょうど良いが、規模の大きくなった大塚家具では十分な売り上げを確保できなくなったはずです。

勝久氏は、経営者としての能力が低かったのでしょうか。私はそうは思いません。極めて優秀な経営者だったと思います。一代で大塚家具を立ち上げ、成長させたカリスマ経営者としての能力は秀逸です。ところが1つ、大きな戦略を誤りました。

父・勝久氏が犯した戦略ミス

低価格路線で成功し、成長したのに、高価格路線に転換したことです。大塚家具は、最初から都心で高級家具を売る戦略をとっていたわけではありません。1980年代には低価格戦略で急成長していました。卸を通さないメーカーからの直接買い付けで低価格を実現し、家具販売に価格破壊を起こしました。

ところが、大塚家具はその後都心に進出し、高級家具を重視する戦略に転換。ニトリなどの低価格戦略に食われて、衰退したのです。

大塚家具の戦略変化を象徴する出来事が、1999年の新宿出店です。業績悪化で閉鎖された三越新宿店に代わり、大塚家具が出店しました。これは当時、流通戦国時代の下克上を象徴する出来事として話題になりました。かつて“小売業の王者”と見られていた百貨店が没落し、郊外の安売りで急成長してきた大塚家具が“本丸”を制する時代が始まったと言われました。

しかし今振り返ると、それが大塚家具の絶頂期でした。都心を制した途端に、今度は北海道から出て郊外の安売りで急成長するニトリに追われる立場となったのは皮肉です。

(写真:ロイター/アフロ)

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