12世紀の地中海、朝靄のなかを一隻の貿易船が進んでいく。
いても立ってもいられず、アンサルド・バイアラルドは舳先から身を乗り出した。周囲には漁師たちの船がぽつぽつと散らばっており、足元では魚がぴちゃぴちゃと飛び跳ねている。空にはカモメだ、陸地が近い。それらに目もくれず、アンサルドの船はまっすぐに波を切り裂いていく。
彼は無一文から身を立てた船乗りだ。
今回の貿易の成果は上々だった。陸地に着いて清算するまで正確な金額は分からないが、利益は70リラを下らないだろう。契約に基づき、利益の1/4、すなわち約18リラがアンサルドの懐に収まるはずだ。
誰かに顎先で指図されるのはもう終わりだ。
ついにアンサルドは、金持ち連中の仲間入りを果たすのだ。
やがて朝日が昇り、海面がキラキラと光を放つ。朝靄は薄まっていき、その向こうから壮麗なジェノバの町並みが姿を現す──。
以上のシーンは私の想像ですが、アンサルド・バイアラルドは実在の人物です。
なぜ彼のような無名の人物のことが分かるかといえば、当時のイタリア都市では「公証人制度」が普及していたからです。彼はインゴ・ダ・ヴォルタという資産家の出資を受けて、貿易商として成功を収めました。その取引の概要が、当時の公証人の記録簿に残されています。
公証人とは、契約書や法的文書の作成を請け負って、その正しさを証明する職業です。
古くはローマ帝国の時代から、ラテン語で公証人を意味するnotariusという職種が存在しました。古代のnotariusたちは、帝国の威信にもとづいて文書の正しさを担保していたようです。しかしローマ帝国の崩壊により、一旦はこのような書記職は失われました。その後は、各地の教会や王権が、法的文書の証明能力を担うようになりました。
ところが11世紀に入り、イタリアで自治都市が成立するようになると、状況が一変します。