はじめに
伝説の名車の開発エピソード
ことの始まりは4輪進出を一流のスポーツカーで成し遂げようとヤマハが考え、日産自動車との共同開発を進めたことにありました。莫大な資金が必要になる開発でしたからヤマハ単独では無理。それに2輪のメーカーでしたから日産主導の下に開発が進められたのです。そのスーパースポーツは「A550X」と呼ばれていたのですが、これは日産とヤマハ、両社の事情もあり、1964年半ばに協力体制は解消されました。
ちょうどこの時、トヨタでは世界に対して自らの技術力の象徴とするために、1台のスポーツカーを開発していました。それが後のトヨタ2000GTとなるのですが、細谷さんのお話では64年の夏頃だったから専門の部署が立ち上げられ、開発スタッフが集められたそうです。そしてエンジンの高木英匡さん、デザイナーの野崎喩さん、足回り担当の山崎進一さん、ドライバーの細谷さんが、デザイナーの野崎さんのアシスタントだけでなく、プロジェクトリーダーの河野二郎さんのドライバーやデザイナーのアシスタントなどを担当していたそうです。
そして開発が進むにつれ「この少数生産の現実離れしたスポーツカーの製造をどこに頼もうか」とか「関東自動車(現在のトヨタ自動車東日本)はどうだろうか?」などと喧々諤々やっているところでした。技術的象徴であっても少数生産車のために稼ぎ頭の大衆車のラインや人員を割くわけにはいかず、どこかに担当してもらわないといけないことになったのです。
そこに持ち上がったのが日産との関係が消滅したヤマハとの共同作業でした。スポーツカーを作りたかったヤマハと、すでに開発が終盤に入っていた2000GTの生産はもちろんのこと、仕上げに向かってのさらなる開発を進めたいという両社の思惑が一致したことによって共同開発が始まりました。なんでもその話をスタッフの皆さんが聞いたのは64年の12月だったそうです。何度も言いますが、この時点でトヨタ2000GTは、すでに全体計画図の作成や各種計算が済んでいたそうです。そしてヤマハとの正式な関係が動き出したのが開けて65年の1月。
この段階でトヨタ側はヤマハと日産の両社で進めていた日産のA550Xを見せられたそうですが、すでに基本設計を変更できる可能性などなかったわけです。世間で言われるように初期段階で影響を受け、トヨタがマネをしたという話は当てはまらないわけです。中には「共同開発が始まって以来、それほど時間を置かずに、試作車を作り上げたのは、やはり日産のマネだからこそ」と譲らない人もいて、色々な憶測へと繋がっていきました。その一方で、トヨタ側の人たちは「ヤマハさんの協力がなかったらトヨタ2000GTは世に送り出すことはできなかった」と全員が口を揃えて証言されています。つまりヤマハの協力無しでは絵に描いた餅のごとく、プロジェクトは消えていたかもしれないと、誰もが認めていますが、一方で真似や開発の丸投げなどは無かったとも明言されています。
名車ならではの噂や憶測、そして誰もが動かすことの出来ない真実の中で開発されたトヨタ2000GTはこうしてデビューし、現在までヘリテッジとして走り続けています。そのサポートをトヨタが、正式にはTGRですが、しっかりと行うことにはやはり重要な意味があるわけです。復刻部品は通常の純正部品と同様、トヨタ販売店で購入できますが、車両のオーナーのみ、かつ車両当たり数量制限付きでの販売となります。これは部品自体にも希少性があり、一部で行われていた転売防止にも繋がります。同種のヘリテッジはある意味ボランティア的なプロジェクトになるかもしれませんが、他メーカーにも名車は存在します。こうした活動は是非とも積極的に展開して欲しいと思います。