はじめに
「他人のせい」か「自己責任」か
世の中や出来事に対する不平不満を口にすることが多い人は、どこか人任せです。このような人たちも孤独力が低いといえます。自分と向き合わずひとりで物事を考え抜く習慣がないために他人の言いなりになる。そして結果が悪いほうに出ると、他人のせいにするのです。
反対に、孤独力が高い人は他人からの制約を受けず、すべて自分で判断して自由に行動します。たとえ失敗しても、他人のせいになどせず、責任をすべて自分で引き受ける覚悟を持っています。自己責任意識があるからこそ、自由を謳歌できるのです。
逆にいえば、自己責任意識を持たない人は自由になれない、といえるかもしれません。
日本では「すべてを自己責任論で片づけるのは良くない」という論調が主流ですが、そのような精神性を持っていると、誰かに依存しなければ生きていけず、永遠に弱者のままだと午堂さんは反論します。
たとえば、IR(統合リゾート)法案に対して「ギャンブル依存症が増えたらどうするんだ」という意見があります。しかし、ギャンブルにお金を使うのは本人であり、強要されたわけではありません。依存症になったとしても、本来は誰のせいにもできないはずです。
弱者から抜け出し自由や成功を手に入れるには、まず、すべてが自己責任であると捉えましょう。誰かのせいにすることは、今の自分を正当化しているだけです。今の状況の責任は全て自分にあると考え、自分自身と向き合うことで、本当にすべきことが分かるはずです。
孤独力が低い人は「逃げる」。高い人は「つらさと向き合う」
つらい感情は誰しも味わいたくないものです。たとえばつらい失恋をしたとき、自分の感情と向き合うことを避け、誰かとどんちゃん騒ぎをして忘れようとする。ヤケ酒やヤケ食いに走る。しかしこれは、臭いものにフタをするのと同じで、自分をごまかして見て見ぬふりをしているだけです。
悲しみや痛みは、それを受け入れ乗り越えた人に人間的な魅力や深みを与えます。乗り越えた自信が表情や言動ににじみ出るからです。つらい感情から逃げてごまかし続ける人に、人間的魅力はありません。
内省の方法のひとつに「内観」があります。これは、自分の「内」なる心の動きや感情を、文字通り「観察する」ことです。たとえば失恋してつらいとき、その感情をごまかさずに向き合うのです。
たのしかった過去を忘れようとせずに、思い出をたどる。つらい感情が何度も湧き上がってきても、ひとり向き合う。そのうちに冷静な自分、たとえば「自分はあの人を大事だと思っていたけど、相手にとっては自分は大事ではなかった。それは悲しいことだけどあの人はあの人で生きていくのだし、自分は自分で生きていくしかないんだ」と考えられる自分が顔を出すようになるでしょう。
その結果、悲しみを乗り越え新しい一歩を踏み出せるようになる。このプロセスを経なければ、いつまでもつらい過去に囚われて、身動きが取れない人生を生きることになってしまいます。
午堂さんはまた、「つらい感情」を受け止めるときに、大事なことがあるといいます。
それは、自分を否定しないこと。「自分はダメなんだ」「こんな自分ではいけない」などと自分を否定しようとすると、かえって自分を追い詰めることになります。客観的に自分自身を見る内省という作業は、ここでも大切です。「出来事→感情→思考→行動→結果」を意識し、自分の素直な声と向き合いましょう。
ひとりきりで自問自答する時間は、自立し、自由に生きるための大切なものです。SNSによって他人とつながっている時間が長い人ほど、すぐにでも「内省」をはじめてみてはいかがでしょうか。思いがけないほどの自由を、感じることができるかもしれません。
孤独をたのしむ力 午堂登紀雄 著
「ひとりは寂しい」「いつもSNS」をやめて、「ありのままの自分」で生きる方法を示す自己啓発書。孤独をたのしめる人とたのしめない人では人生がどう変わるかを対比でわかりやすく紹介。著者は、苦しみ抜いた末に自由な生き方を手に入れた午堂登紀雄氏。
提供/日本実業出版社