はじめに

ビジネスパーソンの理想「前向き思考」の意外なルーツ

そのころから日本でも「心理学化する社会」ということが学問の世界で言われるようになってきました(心理主義論)。つまり、カウンセリングやセラピー(心理療法的な癒やし)的な論理が、それまで以上に社会に浸透し、活用されるようになっていったのです。これまた、いびつなかたちではありましたが、自己啓発セミナーは、1990年代までの日本において、結果としてセラピー的な思想を一般社会人に普及させた最大のムーブメントだったのです。日本のビジネス界の心理主義化を、オモテから支えたのがリクルート、ウラから支えたのが自己啓発セミナーだったのかもしれません。

何でも前向きに考えればものごとは上手く行く、という考え方は「ポジティブ・シンキング」と言われますが、歴史家の共通認識では、そのルーツは19世紀アメリカの民衆宗教思想「ニューソート」にあります。ニューソートでも、幸福、健康、そして富までもが、宇宙の大いなる法則と人間との融合によってもたらされると説きました。ニューソートの流れをくむ新宗教としては、クリスチャン・サイエンスといった教団もあります。日本の新宗教では、生長の家がニューソートの影響を受けています。

自己啓発セミナーが依拠していた1970年代のアメリカ心理療法には、前向き思考というよりも、社会や世間の抑圧から個人を解放することのほうに力点がありました。そのために、自己の徹底的な振り返りの実践や、良い方へ無限に成長していく人間観(すなわち自己実現論)が生まれました。

自己実現を阻むものとしての「トラウマ説」の登場

トラウマ(個人を抑圧するこころの傷、記憶)や、PTSD(心的外傷後ストレス障害)といった概念が、1995年の阪神・淡路大震災以降に日本でも普及するようになりましたが、これらもまた、心理学化する社会に典型的な発想です。日本では、いわゆる「失われた10年」が深化してゆく景気後退の時期に、トラウマ説が台頭しています。

ここでいうトラウマは、大学で研究される心理学(アカデミック心理学)の枠組みを遥かに超え、広く大衆文化に浸透したという意味では「ポップ心理学」言説の一種とも言えます。

また、トラウマ説周辺の動きとして、1990年代後半からゼロ年代前半にかけて、アダルトチルドレンや自助グループも一種のブームとなっていきました。自助グループとは、断酒会などが典型ですが、アルコールなどの依存症者が当事者たちだけで語り合いのグループを形成し、断酒できる生活を目指すというものです。今では、アメリカンドラマなどでも、登場人物がアメリカ版断酒会(AA)に参加するシーンなどは珍しくありません。

アダルトチルドレンとは、典型的には、アルコール依存症者を親にもつ子どもが成人した状態という意味です。アダルトチルドレンたちは、常に親の顔色を窺って育つために、成人してからも様々な「生きづらさ」を抱えやすいと言われています。アダルトチルドレンも「機能不全家族」における生育トラウマに苦しむ「弱い自分」を強調するという構造をもちます。

たとえばアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』も、自己啓発セミナーやアダルトチルドレンなどの「ポップ心理学」の言説を多分に意識した内容となっていました。特に終盤、主人公シンジが自我の崩壊のあと周りの皆に拍手でただ祝福されるといったシーンは、セミナーのようだ、とよく言われました。

トラウマ言説は、個人の自己実現を阻害するものとして存在しています。その意味では、自己実現の反意語はトラウマなのです。自助グループは、いちばん経済性が薄い、ビジネスから遠く離れた安全な場所を志向しているとも言えます。

昭和的な価値観がなくなるとともに心理主義化してきた社会

ここまでをまとめましょう。心理学化する社会においては、「思考は現実化する」式の前向き思考から、自己の弱さを強調するトラウマ語りまでが存在します。徹底的な前向き思考を説いたのがネットワークビジネス、次に流行した自己啓発セミナーは自分を見つめ直して自己実現を志向しました。

その後、拡大型の自己を阻害する要素としてのトラウマもまた、心理主義という世界観のダークサイドとして台頭してきました。自己啓発セミナー流の、社会によって抑圧された自己、という人間像は、前向き思考とトラウマ説を橋渡しする役目を結果として担ったとも言えます。

社員旅行の宴会場で社員全員が阿波踊りをしていたような昭和的な「しがらみ社会」のありかたが終えんを迎えつつある時代に、個人と社会とのバランスを図る新たな方法として、カウンセリング・セラピー的な論理が台頭しています。それこそが社会の心理主義化なのです。

もちろん「学歴信仰」や、正社員になることが一般人としての最大の現実的幸福をもたらすはずだと考える「正社員幸せモデル」とでも言うべき価値観は、変わらず日本人の中にあります。しかし、学歴信仰や正社員幸せモデルのもとで、全員が勝者になるわけでも、全員が等しく自己実現できるわけでもありません。そこに、ポップ心理学的な、金銭的成功や自己実現を約束するかに見える様々な商売、実践が生まれては消えていったのです。

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