はじめに

親と妻を巻き込み…

愛して、愛してと体中で迫ってくるミチエさんを見て、既婚の男性としては逃げるしか選択肢がなかったのかもしれません。彼女が客として行っても、彼はほとんど話しかけてもくれなくなりました。

「一度だけ祖父母の家に来てくれた父を思い出しました。父が帰るとき、私はいつまでも見送っていたんです。追いかけたい衝動と闘っていた。オーナーにはいつもすがりつきたい思いでいました」

そしてあるとき、彼女は本当にレジでお金を払いながらオーナーにすがりついてしまったのです。店はちょっとした騒動になりました。

「次の日、母から連絡がありました。帰っておいで、と。オーナーの奥さんが母に連絡を入れたようです。彼、奥さんに尻ぬぐいを頼んだんでしょう。卑怯な男だと恨みました。私は帰るつもりはありませんでした」

その日も仕事が終わると、彼女は店に向かいました。すると店からオーナーの妻が出てきて、封筒を渡したのです。そこには大きな文字で「手切れ金」と書いてありました。店の中からオーナーも見ています。妻を押しのけて店に入ろうとすると、妻は低い声で言いました。

「警察呼ぶわよ」

ハッとして妻を見ると、妻の目が本気でした。殺気だっていたとミチエさんは言います。その迫力に圧倒され、ミチエさんは店に背を向けて歩き始めました。

「手切れ金」と書かれた封筒

「帰宅して封筒を見たら、真新しいお札で100万円入っていました。封がしてあるお札を初めて見ましたね。私の彼への3年間の愛情は100万円だったのか、と。うれしくも悲しくもなかった。感情が止まってしまったんです。100万円を部屋にばらまきました」

そのまま倒れるように寝込んだ彼女、翌朝、目を覚ますと部屋中に1万円札が散らばっています。それを見て初めて涙が出てきて、その日は仕事を休みました。
その後、彼女はそのお金を銀行に預け、住む場所も職場も変えました。どんなにお金がないときでも、その100万円には手をつけなかったそうです。

当時を振り返って

「結局、それからもずっとひとりで東京近郊で働いてきました。男性ときちんとつきあうこともほとんどありませんでした。夫となった彼に出会ったのは2年前。彼に父の話をしたら、一緒に会いに行ってくれたんです。父が『ごめんな』と言ってくれたとき、あのオーナーのことも許せそうな気がしました。結婚が決まったとき、10数年ぶりに店の近くまで行ってみたんですよ。店はありました。会いたいとは思わなかった」

結婚して幸せな日々を送っている今のミチエさんですが、それでもあの100万円には手をつけずにいました。ただ、最近は、思い切って使ってしまおうかと考え始めています。

「あのお金の存在が私を苦しめているような気がするんですよね。手切れ金と書いてあった封筒は捨てましたが、あの字体も今でも覚えています。彼の文字ではなかった。妻が書いたんでしょう」

今思えば、当時、店にとって100万円は大金だったはず。そうまでしても妻は別れさせたかったのでしょう。

「彼への思慕とか憧憬ではなく、今となってはそんなことをさせてしまった自分が恥ずかしい。若気の至りと笑えないものがあります。自分の罪深さが痛みとなっているんです」

あのお金をどうするのがいちばんいいのか。ようやく彼女はそう考えることができるようになったのだそうです。

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