はじめに
お金を置いていくせつなさ
ふたりの間の会話も減っていきました。そんなある日、朝出かけようとすると、テーブルの上にメモが置いてあります。彼の字でした。
「少しお金を貸してほしい。1万でもいいからって。あ、と思いました。彼、もともと非正規だったし、いくら仕事が忙しくてもそれほど高給ではなかったはず。貯金だってしていなかったのではないかと。お金がないって心寂しいですもんね。その日、私は2万円置いていきました」
それ以来、彼女は3日に1度くらい1万円を置いていくようになりました。彼から感謝の言葉は一度もありません。
「私だって彼との生活をひとりで支えられるほど稼いでいません。でも彼が落ち込んでいるのを見たくない。だから少し貯金を取り崩して生活していたんです。ところがある日、職場で、今日はみんな早めに帰ってほしいという指令が出たことがあり、午後3時ごろ自宅最寄り駅に着いたんです。そうしたらパチンコ屋から彼が出てきてばったり出くわして……。いや、いいんですよ、彼があのお金を何に使おうとかまわない。だけど彼、私の顔を見て逃げたんですよ。それがショックだった」
仕事がないのは彼のせいではないのに劣等感を覚え、その気持ちがねじ曲がっていくのです。彼女からお小遣いをもらっていることを申し訳なく思いながらも、感謝することも彼女を手伝うこともできずにいるのでしょう。
「逃げていく彼の後ろ姿が、なんともいえず悲しくて。そのまま帰宅したら彼は帰っていませんでした。その日、私は身の回りのものをもって実家に戻りました」
実家は会社から少し遠いのですが、それでも彼と一緒にいる気まずさから逃れたかったとアズサさんは言います。彼からは連絡がないままですが、彼女は先日、彼と住んでいたマンションの郵便受けに3万円ほどのお金を入れた封筒をつっこんできました。
「食べられなかったらかわいそうだなと思って。彼がいるかもしれないので部屋には入りませんでしたが、この先、どうしたらいいかわかりません」
じつは知らなかった相手のこと
家賃はずっと彼が払っていました。今後も払えるのかどうか。そもそも彼に本当に貯金がないかどうかもわかりません。
「一緒に住んではいたけど、私、彼のことを何も知らなかったんだと気づきました。何かあると彼は部屋に籠もったりパチンコに行ったりして、まったく協力してくれないこと、話し合おうとさえしないこと。知り合ってからずっと彼はいつも仕事で忙しかったけど、会えば生き生きしていました。まあ、仕事がなくなるなんて彼も私も思ってもいない事態だから、戸惑うのはわかるんですが」
それならいっそ泣きついてくれたほうがいい。どうしよう、アルバイトをしたほうがいいよねとでも言ってくれれば、今のうちに今後、仕事で使えそうなアイデアをためたり勉強したりしたほうがいいんじゃないかなと彼女は答えるつもりだったそうです。
「ひとりで悲劇を抱え込んで落ち込んでいる彼を見ると、みんな同じだよ、ひとりで落ちていても何も解決しないよと言いたくなりました。でもそういうことを言うと、きっとさらに沈んでいくだろうなと思って何も言えなかった」
非正規で働いている人、フリーランス、だれもがつらい状況です。でも一緒に住んでいる彼女にそこまで心配されるなんて、逆に幸せだともいえるのではないでしょうか。彼女の愛情をきちんと受け止められない彼、そして愛情を受け止めてもらえない彼女。これからこのカップルはどうなっていくのでしょうか。