はじめに
ゆっくりと恋が始まって
そこからゆっくり恋が始まっていきました。最初に彼が彼女の部屋に来たときは、お互いに緊張してぎこちなくなっていたそうです。
「彼は『こんな気持ちになったのは高校生の初恋以来』と言っていました。奥さんとは親戚の紹介で、お見合いのようなものだったと。男子校から理工系の大学へ行ったので、ずっと女性とは縁がなかったと照れていました」
既婚であることを理由に、彼はなかなかアイコさんと深い関係になろうとしませんでした。彼女を苦しめることになると心配していたのです。
「結局は私から誘う感じでしたね」
週に1回か2回、お互いに時間を作って会う日々が続きました。彼はまめに連絡もくれたし、彼女は不安に陥ることはありませんでした。
「愛されている実感がありました。田舎の親も結婚を気にしていたし、私自身も考えることはありましたけど、彼と一緒の時間がいちばん大事だった」
彼女の誕生日にレストランを予約してくれ、サプライズで大きなケーキが出てきたことも。店中の人に配って一緒にお祝いしてもらったそうです。
「明るくて楽しくて。それでいてけっこう勉強家なんです、彼。よく本を読んでいましたね。同じ業界ですから、私もいろいろ教わりました。映画も好きで、ときどき一緒に行きました。好奇心旺盛な人だったんです」
高価なプレゼントはしない人だった。それでも誕生日やクリスマス以外に、ときどき「これ、アイコちゃんに似合うと思って」と春らしいきれいなスカーフや、冬にはしっかりした皮の手袋などをもらったことがあるそうです
「忘れられないのは、つきあって5年たった私の34歳の誕生日。プラチナの繊細な透かし模様が入った指輪をくれたんです。彼がデザインをして、知り合いに頼んで作ってもらった世界でひとつの指輪だそう。感動しました。本当にきれいだったから」
彼女は右手の薬指にはめていました。ところがその1ヵ月後、彼は突然、この世からいなくなってしまったのです。
「会社の帰りに駅のホームで倒れ、それきり意識も戻らずに亡くなったそうです。亡くなって初めて社内でも大騒ぎになって。うちの会社と直接、取引はなかったんですが、彼のことを知っている人は少なくなかった。ただ、彼と私がつきあっていることは誰も知りませんでしたが」
会社からは部長と、他に彼と面識があった人数人が葬儀に行くということだったので、彼女はこっそりお通夜に行きました。でも顔を見たら立っていられなくなってしまうと思い、お焼香をすませるとすぐに立ち去りました。