はじめに
推理小説は、1841年に発表されたエドガー・アラン・ポーの短編『モルグ街の殺人』から始まったと言われます。それから約半世紀後の1887年、推理小説界の永遠のヒーローが誕生しました。コナン・ドイルの『緋色の研究』が出版されて、シャーロック・ホームズが世に出たのです。
ホームズ・シリーズは謎解きの痛快さもさることながら、当時の金銭感覚がありありと描写されていることが魅力です。当時のイギリスでは、ポンド、シリング、ペニーという通貨単位が用いられていました。1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンスです。(※ペンスはペニーの複数形)
では、これらのお金は実際にはどれくらいの価値を持っていたのでしょうか?
19世紀イギリスの“お金の価値”
たとえば『花婿の正体(1891年)』には、「普通、年に60ポンドもあれば、独身の女性ならずいぶんゆとりのある生活ができますからね」というセリフが登場します。月収でいえば5ポンドです。相手は「それよりもずっと少なくてもやっていけますわ、ホームズさん」と答えます。
彼女は利子収入で生活している一方で、タイピングの仕事でも1ページあたり2ペンス、1日に15~20ページ分の稼ぎがあるそうです。日収2シリング6ペンス~3シリング4ペンスになる計算です。月20日間の稼働で2ポンド半~3ポンド少々。これが、当時の女性の内職として妥当な金額だったのでしょう。
また、『ブナの木屋敷の怪(1892年)』には、住み込みで働く家庭教師の女性が登場します。彼女は「先日まで勤めておりました…お宅では、月に4ポンド頂戴していました」といいます。
これら第一シリーズから約10年後に書かれた『ブラック・ピーター(1904年)』には、熟練の船乗りが月8ポンドの収入を求めるシーンが登場します。当時のイギリスは物価変動が極めて鈍かったので、この金額は性別や職業の違いを反映したものだと考えていいでしょう。
このあたりが当時の金銭感覚を知るうえでのスタートになりそうですね。
『緋色の研究』に登場するジョン・ランス巡査は、「4ペンスのジン・ホット」が好物だったようです。当時のジンは労働者階級の飲む安酒で、1杯4ペンスでお湯割りを楽しむことができました。1シリングでジン・ホット3杯分、1ポンドで60杯分です。月収4ポンドの労働者なら、毎日2杯ずつ飲むだけで収入の1/4が消えてしまうことになります。
同じく『緋色の研究』では、被害者のポケットには金時計や指輪とともに7ポンド13シリングの現金が入っていました。専門技能を持つ男性労働者の月収に匹敵する金額です。当時の読者は、この金額を見るだけで「カネが目当ての強盗殺人ではない」→「つまり怨恨による殺人だ!」と推理できたはずです。
『赤毛組合(1891年)』は、シリーズのなかでも一、二を争う有名な作品でしょう。小さな質屋を営む赤毛の男が、「赤毛組合」を名乗る謎の組織から奇妙な仕事を依頼されて――、というあらすじ。大英百科事典の内容を筆写するだけで週4ポンドも支払ってもらえると聞いて、彼はこの仕事に飛びつきました。キツい船乗りの仕事が月8ポンドだと考えれば、無理もありません。
お酒よりもコスパがいい嗜好品だった煙草
『黄色い顔』には、残されたパイプから持ち主のプロフィールを推理するシーンがあります。
「このパイプ、ぼくの見立てでは、値段はおよそ7シリング6ペンスといったところだろう」とホームズは言います。ところがパイプには二度も修繕した痕跡があり、新品を買うよりも修理にお金がかかっていることがうかがえます。したがって、持ち主の男は「よほどこのパイプに愛着がある」はずだと、ホームズは推理します。「これだけ大事にしているパイプを置き忘れていくとなると、その御仁、だいぶやきもきしていたに相違ない」と。
さらに、パイプの持ち主は金持ちだったはず――。そう推理するホームズに対して、ワトソンは冷ややかに言います。
「7シリング6ペンスのパイプを使っているから、その人物が裕福だとでも言うのか?」
対するホームズは、すっぱりと返答します。
「この煙草だがね、これは1オンス(※約28グラム)8ペンスもする」銘柄だよ、と。ホームズの言葉を信じるなら、「その半額でけっこう吸える銘柄が買える」そうです。このあたりの描写には当時の金銭感覚がありありと描かれていて、お金の歴史が大好きな私はワクワクせずにはいられません。
19世紀半ばのクリミア戦争以後、ヨーロッパでは急速に喫煙習慣が広まりました。イギリスとフランスとロシアの兵士たちは配給煙草によって愛煙家となり、それぞれの故郷に喫煙習慣を持ち帰ったからです[1]。
当時の金銭感覚を考えれば、当然の結果でしょう。ジン・ホットが1杯4ペンスしたことを思い出してください。比べて煙草は、高級な銘柄でさえ1オンス8ペンス。喫煙量にもよりますが、1オンスあれば数日間は楽しむことができたでしょう。酒に比べれば、煙草はかなりコストパフォーマンスのいい嗜好品だったようです。
トマ・ピケティの『21世紀の資本』によれば、現代の西側先進国で経済格差が縮小したのは、皮肉にも二度の世界大戦の〝おかげ〟だそうです。戦後の国債暴落と急激なインフレによって富裕層の資産の価値が下がる一方、盛んな労働運動により一般庶民の賃金が上がったからです。
比べて、シャーロック・ホームズが書かれた19世紀末~20世紀初頭は、極端な経済格差が根強くはびこっている時代でした。それは作中にも現れています。
たとえば『空屋の冒険(1903年)』の被害者は青年貴族ですが、死の直前にカード賭博で5ポンドほど負けて、しかし「このくらいの負けは痛くも痒くもないはず」だと評されています。20世紀に入っても貴族階級の若者は、労働者の1ヶ月ぶんの賃金に近い金額を、はした金として使うことができたようです。
『くちびるのねじれた男(1891年)』は、ロンドン郊外の街に謎の男が引っ越してきたことが事件の発端になります。彼は大きな別荘を買い取って、庭も綺麗に整備し、さらに地元の酒蔵の娘と結婚して子供までもうけました。ホームズの捜査によれば、その男には220ポンドの預金と88ポンド10シリングの負債があるそうです。このぐらいの財務状況なら、当時の〝お金持ち〟の仲間入りができたようです。男は毎日ロンドンに出勤し、とある仕事で1日2ポンドを稼いでいました。その仕事とは――。これ以上はネタバレになってしまうので、ぜひ本編を読んでみてください。
今回の記事でシャーロック・ホームズを取り上げたのは、それが「簿記の歴史」のなかでも重要な時代のひとつだからです。19世紀末、複式簿記はついに現代的な会計学として結実しました。次回の記事ではその顛末を見ていきましょう。
■主要参考文献■
深町眞理子訳「シャーロック・ホームズ」シリーズ(創元推理文庫)
[1]シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史』ハヤカワノンフィクション文庫(2016年)下p27