はじめに

ジャック・ネッケルという人物がいます。スイス人の銀行家であり、フランス国王ルイ16世に財務長官として雇われた男です。ネッケルは庶民階級の生まれでしたが、穀物の投機で莫大な利益を上げたことで上流階級の仲間入りを果たしました。また、彼の妻が主宰していたサロンは大変な人気で、人脈にも恵まれていました。

ルイ16世が即位したのは1774年。世界史に詳しい方なら、この年代を聞いただけでピンと来るでしょう。北米大陸のフランス領植民地とイギリス領植民地とが衝突したフレンチ‐インディアン戦争から10年ほどしか経っておらず、さらに1775年からはアメリカ独立戦争が始まりました。のちにアメリカ合衆国となる植民地側として、フランスも独立戦争に参戦しています。

度重なる戦争により、フランスの財政状態は急激に悪化していました。

そこで、会計・金融の知識に優れ、人脈豊かなネッケルに白羽の矢が立ったのです。


ネッケルの財務改革

当時のフランスを一言であらわすなら「腐敗」でした。人口の3%足らずの上流階級がフランス全土の富の90%を保有しており、さらにさまざまな特権により税金を免れていました。税の徴収は「徴税請負人」という人々に委託されていましたが、彼らは国から求められた以上の税金を徴収して、私腹を肥やしていました。

当然、一般庶民は恣意的で不透明な重税に苦しめられていました。徴税請負人たちの帳簿は複式簿記ですらなく、しばしば改竄が入り込みました。受け取った税金をすぐに財務省に渡さないばかりか、高利で王家に貸し付ける者までいたそうです。

こういう状況だったからこそ、ネッケルのような外国人が登用されたのでしょう。

貴族や徴税請負人たちの既得権益からは距離があり、個人的な損得を離れて改革を進めてくれるはず――。そういう期待があったはずです。もちろん、彼がスイス出身でジュネーヴの金融界に顔が利き、国王のためにカネの工面をしやすい立場だったことも理由の一つでしょうが。

財務長官に就任したネッケルは、さっそく辣腕ぶりを発揮しました。徴税請負人の数を削減したうえに、抜き打ちで監査できるようにしました。さらに、国家財務を複式簿記による元帳で集中管理しようとしました。当時のフランス王室の負債は30億リーブルに達しており、利払いだけで年に約2億リーブル。歳出の半分以上の額が、利子の支払いに充てられていました。ネッケルにとって財務改革は待ったなしだったのです。

ところが彼の改革は、既得権益者による猛烈な反発を招きました。

もともと外国人だったネッケルは、批判者にとって叩きやすい相手でした。パリの大衆新聞には根も葉もない悪評が書かれ、扇動的なパンフレットがバラまかれました。いわく、スイスの銀行家であるネッケルは国庫のカネを自分の懐に収めようとしている、云々――。ジョン・ローというスコットランド人によりフランス経済が滅茶苦茶になったことは、以前の記事で紹介した通りです。攻撃者たちはネッケルを第二のローだと見なしたのです。

注目すべきは、「ネッケル叩き」の材料としてさまざまな数字が使われたことです。ネッケルが国庫からかすめ取ろうとしている金額は175万リーブルに登るとか、ネッケルの徴税請負人改革には9800万リーブルのコストがかかるとか、そんな改革をせずとも銀行組合から未払い債務を取り立てるだけで2億5000万リーブルを回収できるとか……。たとえ根拠薄弱のデタラメな計算でも、数字が並んでいると説得力が増します。

だからこそ、ネッケルは思い切った反撃に出ました。

「ネッケル叩き」への反撃

国庫の財務情報を開示して、新聞やパンフレットの批判を論破しようとしたのです。

1781年、『国王への会計報告』という文書が公表されました。その年の王家の財政の報告書という体裁であり、それによれば1020万リーブルの黒字だと書かれています。この報告書は、ネッケルが自らの地位と評判を守るためのものだっただけでなく、どうやらヨーロッパ各国の金融界にも目配せしたものだったようです。フランスはこの通り黒字だから、引き続きお金を貸してくれ、というわけです。

『会計報告』は空前のベストセラーとなり、その年だけで10万部が売れました。国外でも翻訳されて数千部が売れたと見られています。まだ識字率の低い時代にあって、これは異例のヒットでした。約80年後に出版された『種の起源』でさえ、初版部数は1,250部にすぎません。

絶対王政下のフランスでは国の財務状況を国民に知らせる義務はなく、国家財政は謎に包まれていました。その秘密を白日の下にさらしたことがどれだけ衝撃的だったか、この販売部数だけでも分かろうというものです。

ネッケルの『会計報告』によれば、フランス王家の総収入は2億6415万4000リーブル、経常支出は2億5395万4000リーブルだったそうです。兵士への給与が6520万リーブル、宮廷費用と王室費が2570万リーブル等々。軍事費や王宮の豪勢な生活にかかる費用に比べると、道路橋梁建設500万リーブル、パリの警察・照明・清掃150万リーブル、貧民救済費90万リーブル、王立図書館維持費8万9000リーブル等、一般庶民の生活にはあまり関心が払われていなかったことが分かります。

罷免、そして復帰

当然、フランスの市民たちは怒り狂いました。

この『会計報告』は貴族や政治家からの突き上げも激しく、1781年5月19日、ついにネッケルは罷免されてしまいます。

しかし一度は大衆新聞に袋叩きにされたネッケルですが、王家の秘密を暴いたことで民衆の味方だと見なされるようになりました。一般庶民のヒーローになってしまったのです。

新聞各紙は『会計報告』に関する特集記事をたびたび掲載しました。また王室の側でも、ネッケルほどの敏腕ぶりを発揮できる財務担当者が見つからなかったようです。罷免後も、大筋ではネッケルが描いた絵どおりの改革が進んでいきました。

1788年、ネッケルは財務長官へと復帰しました。

ルイ16世としては苦渋の選択だったでしょうが、民衆の声を無視するわけにはいかず、また他に適任者がいなかったようです。人々は大通りに繰り出して、ネッケルの復活を祝ったと言われています。

とはいえ、財政難というフランスの状況は変わりません。

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