生活

簿記と脳の仕組み

簿記の歴史物語 第28回

歴史の謎の一つは、複式簿記の基本的なルールがほとんど変わらなかったことです。

この連載をお読みの方なら、複式簿記の基本的な仕組みがルネサンスの頃の北イタリアで完成したことをご存知でしょう。そして19世紀、産業革命とともに現代的な会計学が完成しました。そして現代に至るまでの約500年間にわたり、簿記の基礎――勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させる――は、変わりませんでした。

簿記を「商売のための道具」だと考えると、これは驚異的なことです。

たとえば「移動のための道具」と比べてみれば、違いは明白です。最初は徒歩だったものが、やがて馬やラクダに騎乗するようになり、馬車や牛車が誕生し、鉄道が生まれ、自転車や自動車が生まれ、飛行機が飛び回るようになった――。歴史が進むごとに、その道具は大きく姿を変えています。

一方、複式簿記は違います。たしかに誕生時に比べれば大きく発展し、より正確で精緻なものになりました。が、基礎となるルールは現在でもルネサンスの頃と同じです。それどころか、西洋式の複式簿記を知らないはずの日本でも、独自発生的に複式簿記に似た記帳方法が生まれていました。

いったい、なぜでしょうか?


ヒトにあって他の哺乳類にはない武器

これはあくまでも私個人の考えですが、おそらく複式簿記の仕組みは、私たちが生まれ持った「脳の仕組み」に合致しているのでしょう。時代や地域が違っても、ホモ・サピエンスの脳には共通の生物学的特徴があるはずです。むしろ、私たちの脳に共通の思考プロセスを紙に書き出したものこそ、複式簿記なのではないか――。私は最近、そう考えています。

そもそもヒトの脳は、どのように進化したのでしょうか?

一般的によく耳にするのは、狩りのために脳が発達したという仮説です。道具を使って獲物を捕らえ、肉を切り裂き、火を使って加工する――。たしかに、他の動物に比べれば高い知能が必要な作業でしょう。私たちの大きな脳が食糧調達に役立ったことは間違いありません。

しかし、この仮説の苦しいところは、狩りのため〝だけ〟なら、ここまで大きな脳は必要ないということです。ヒトと同じアフリカのサバンナで進化したライオンやチーターは、私たちよりもずっと小さな脳しか持っていません。けれど、立派に狩りを成功させています。

たしかにヒトには、ライオンのような牙もチーターのような駿足もありません。ところが、あまり知られていないことですが、ヒトには他の哺乳類にはない強力な武器があります。

それは暑さに強いことです。

進化し続けた脳

じつは私たちは、全哺乳類のなかでもっとも暑さに耐性のある動物なのです。

直立二足歩行のおかげで、太陽の照りつけが厳しくなる正午ごろに、日に当たる体表の面積を小さくできます。四つ足で歩く動物が背中全体を太陽に温められるのとは対照的です。さらに大量の汗をかくことができ、体毛が薄いので冷却効果も高い。ヒトはアテネ五輪のような40度近い気温の中でフルマラソンを走れる唯一の動物なのです。[1]

この武器を生かして、私たちの祖先は複雑な道具を発明する以前から「持久狩猟」という方法で獲物を捕らえていました。相手が熱中症で倒れるまで、延々と追いかけ続ける狩猟法です。獲物が暑さで動けなくなったところを、投石や撲殺で仕留めていたのでしょう。

約150~200万年前には、私たちの祖先は持久狩猟を行えるだけの肉体を手に入れていました。私たちの手足の構造は、この時代からさほど変わっていません。

しかし、脳は別です。この時代の人類は、現代人に比べて7割程度の大きさの脳しか持っていませんでした。[2]さらに言えば、狩りを行うのに充分な肉体を手に入れた後も、脳の進化は止まりませんでした。それどころか、脳の肥大化はこの時代以降ますます加速したのです。[3]

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