はじめに
「バブル」という言葉を耳にすると、平成初期の日本の不動産バブルや、リーマンショックをもたらしたアメリカのサブプライムローンバブルを思い浮かべがちです。しかし、この連載でも紹介してきた通り、バブルは現代に限ったものではありません。
オランダのチューリップ・マニア、イギリスの南海泡沫事件、フランスのミシシッピ会社事件――。どうやら貨幣経済がある程度まで発達した社会では、人々は投機的な目的で物品を取引するようになってしまうようです。バブルは人間の本性の一つなのかもしれません。
そして、もちろん、日本も例外ではありません。
ウサギバブルの到来
日本史の中で特筆すべきは、明治初期のウサギバブルでしょう。西洋産のうさぎ飼育が大流行し、美しい毛並みを持つ個体が高値で取引されたのです。
私たちが「うさぎ」と聞いて思い浮かべるウサギ亜科の動物は、大きくノウサギ類とアナウサギ類に大別されます。このうち、日本に古来より生息していたのはノウサギ類であり、アナウサギ類はいませんでした。
雪国ではノウサギは真っ白な冬毛になりますが、そうでない地域では1年中茶褐色のままです。日本神話にしばしば白いウサギが登場するのは、大和朝廷のあった関西地方ではノウサギが冬毛にならず、白いウサギが珍しかったからです。そのため神聖視されたのでしょう。
幕末~明治維新の時代になると、日本は鎖国を解き、西洋からさまざまな珍品が輸入されるようになりました。その中に、アナウサギ類に属するカイウサギも含まれていました。小学生の頃に学校でウサギを飼育していた人は多いと思いますが、あのウサギたちはペット用に品種改良されたアナウサギの仲間であり、日本原産のノウサギとは別種です。
それまでノウサギしか知らなかった日本人にとって、さまざまな模様の毛皮を持つカイウサギはいかにも珍重な存在に見えたのでしょう。飼育のたやすさも魅力だったはずです。ペットとしてウサギを飼う人が急激に増え、都市部では「兔市」が立つようになりました。ウサギの売買や、毛並みの品評会が行われるようになったのです。
見かねた行政による布令
明治5年(1872年)7月、大阪府は「兔市」や「兔集会」を禁じる布令を出しました。この時期にはウサギの飼育に熱を上げて家業をおろそかにする者などが現れて、行政の頭痛の種となっていたことが分かります。
この状況は、江戸から名前が変わったばかりの東京でも同じでした。同年7月の『新聞雑誌』54号は、東京府におけるウサギ飼育の流行を批判する記事を載せています。同紙は木戸孝允らが明治政府の政策を広報するために創刊した、いわば御用新聞でした。
当時もっとも人気だったのは、白地に黒い斑文を持つウサギでした。「更紗(さらさ)模様」と呼ばれ、この模様を持つ種付け用のオスウサギは200~300円、ときには600円で売買されました。種付け料も1回につき2~3円でした。更紗模様のオスウサギを入手できれば、一攫千金が可能だったわけです。
明治6年1月には、東京でも「兔会」を禁じる布令が出されました。しかしウサギの人気は衰えませんでした。茶器の運搬具に似せた籐製のカゴにウサギを入れて、待合茶屋などで頻繁に品評会が開かれていました。
当時の大津絵節(※宴席で三味線を鳴らしながら歌われた俗曲)にも、ウサギの取引の様子が歌われています。それによれば、妊娠中のメスウサギは40両が相場だったようです(※当時は「円」の流通が始まったばかりで、旧1両=1円でした[1])。種付け用のオスに比べれば安価ですが、それでもかなりの高額です。
ここで当時の物価を確認しておきましょう。
明治6年の東京府における玄米中級1石あたりの時価は4円80銭でした。1円では2斗8合3勺の玄米が買えたことになります。日本酒の「一升瓶」や、油の「一斗缶」でおなじみの単位ですね。1石=10斗=100升=1000合です。大人1人が一度の食事に1合ずつ米を食べても、1ヶ月で9升程度。つまり、1円あれば3ヶ月分の米が買えました。
ちなみに妊娠中のメスが高額で取引されたのは、どんな模様の子ウサギが生まれてくるか分からなかったからだそうです。現代でいえばソーシャルゲームの「ガチャ」に大金をつぎ込むようなものでしょうか?