はじめに
石炭の普及
最後に、イギリスで石炭産業が発展した過程を見ていきましょう。
たしかにブリテン島は石炭の鉱脈に恵まれた土地です。しかし、ただたくさん採れるというだけでは石炭は普及しません。暖房や調理に使用するうえで、石炭には致命的な欠点があるからです。それは燃焼時に硫黄臭を発することです。
中世までのイギリスの一般的な家屋には煙突がありませんでした。吹き抜けになった大部屋を設けて、その中央に背の低い炉を据えて、そこで煮炊きをしていたのです。煙は天井近くの換気窓から逃がしていました。当然、天井近くには煙が溜まることになり、ベーコンを燻製することさえできました[14]。
このような旧来の家屋では石炭が利用できません。悪臭が充満するだけでなく、背の低い炉では簡単に火が消えてしまいます。石炭を活用するには、高い技術力が必要なのです。効率よく燃やすために石炭を小さな場所に囲い込み、空気の流れを調整し、悪臭の対策として煙突を作り、そこから逃げる熱を最小限にして――。石炭を利用できる家屋の設計には、試行錯誤が必要でした。
画像出典:ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命』名古屋大学出版会(2017年)p108
同じ熱量を得るのに必要な燃料の価格を比較すると、イギリスでは古くから石炭は木材(薪や木炭)の半額でした[15]。中世の人々も、頭の片隅では石炭で暖を取りたいと考えていたかもしれません。しかし当時は人口の増加が緩やかで、家屋の新築もまばらでした。そのため新しい技術を実験できませんでした。
画像出典:ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命』名古屋大学出版会(2017年)p98
ロンドンでは例外的に、古くから石炭と木材の価格はほぼ同じでした。ロンドンでは田舎以上に石炭を使うメリットがなかったことになります。
しかし、毛織物産業の成功により事態が一変します。ロンドンの人口は爆発的に増え、都市圏は広がり、絶えず家屋が新築されるようになったのです。結果、1550年代以降のロンドンでは木材の価格が急騰し、石炭の2倍以上になりました[16]。
都市が成長すれば、そこで使われる燃料の需要も拡大します。しかし、木材は簡単に供給を増やすことができません。当時のイギリスの林業では、ほぼ15年周期の「萌芽(ほうが)更新」が行われていました[17]。材木を伐採した際に切り株を残し、切り株から萌芽した若木を15年かけて育て、再び伐採するという生産方法です。1500年にわずか5万人だったロンドンは、1600年には20万人に膨らみました。木材の供給がまったく追いつかなかったのです。
したがってロンドンは、近郊の森林だけでなく、イギリス全土から木材を購入しなければなりませんでした。輸送経路が延びれば、その費用は末端価格に転嫁されます。こうしてロンドンにおける薪や木炭の価格は高騰し、石炭を使うことにメリットが生まれました。
また、ロンドンでは家屋の新築が盛んだった点も見逃せません。建築業者から見れば、格安の石炭を利用できる設計は大きなセールスポイントになります。狭い地域にたくさんの家が建てられたのですから、建築業者同士の技術交流もあったはずです。こうして石炭を家庭利用するための技術が磨かれていきました。
極めつけは1666年9月のロンドン大火です[18]。約1万3200戸の家屋が燃え落ち、教会や市庁舎などの公共建築も多数が崩壊しました。人的被害は軽微だったものの、都市の大部分が炎に包まれたのです。
これを受けて政府は、燃えやすい木造家屋をロンドンに建てることを禁じました。石とレンガと煙突のあるロンドンの街並みは、このときに生まれたのです。
石炭を利用できる新設計の家屋は、ロンドン以外の地域にも広がりました。地方の農民たちがロンドン風の生活に憧れていたことはすでに書いた通りです。石炭のほうが安かったのですから、煙突のある家屋に建て替えることは経済的でもありました。こうして、イギリス中の家屋が近代的なものに置き換わっていきました。これをイギリスの「大再建」と呼び、1570年代から18世紀前半まで続きます[19]。
興味深いのは、ロンドンにおける石炭の価格が19世紀までほぼ一定だったことです。このことは、大再建にともない拡大した石炭の需要に応(こた)えて、生産者が精力的に炭鉱を開発したことを意味しています。
1570年に約23万トンだったイギリスの石炭生産量は、1700年には約299万トンに、1800年には約1505万トンに達しました。当時、これに匹敵する大規模な石炭産業を擁していたのはベルギー南部だけで、それでも1800年頃の生産量は年間約200万トン、イギリスの13%にすぎませんでした[20]。
ロンドンにおける石炭の末端価格が一定だったということは、炭鉱のある地域での生産者価格は大きく下がっていたことになります。実際その通りで、産業革命がロンドンではなく(比較的)田舎から始まった理由でもあります。
画像出典:ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命』名古屋大学出版会(2017年)p94
このグラフは1700年代初期の各地域の燃料費を比較したものです。同じ熱量(※ここでは100万BTU。BTUとはイギリスで使われる熱量単位で、1ポンドの水を華氏1度上昇させるのに必要な熱量)を得るために必要な燃料の価格を、銀のグラム数に換算しています。ニューキャスルの安さが目立ちますが、イギリスの炭鉱地帯ではどこも同じくらいの水準でした。だからこそ、燃費の悪い初期の蒸気機関を利用できたのです。
なぜ産業革命はイギリスで始まったのか
14世紀のペストの惨禍は、ヨーマンの登場と毛織物産業の成立という思わぬ副産物をイギリスにもたらしました。それらは「農業革命」と呼ばれる農業生産性の向上と、国際貿易都市ロンドンの急成長に繋がりました。ロンドンの高賃金はイギリス全土に広がり、また一方で木材燃料から石炭への転換をうながしました。
こうして産業革命前夜の18世紀までに、イギリスでは高賃金と格安の燃料費という状況が出現したのです。
産業革命がイギリスで始まった理由を考えると、やはり賃金の高さがもっとも重要なポイントでしょう。たとえばジェニー紡績機は、石炭を利用しません。燃料費の安さとは関係がないのです。それでもこの紡績機が発明されたのは、賃金の高さゆえに、人件費を節約することで利益を出せたからです。
したがって安価な労働力を利用できることは、必ずしも経済成長に繋がるとは限りません。むしろ労働を機械に置き換える――生産を効率化する――インセンティブを奪い、技術革新を鈍化させ、経済の発展を阻害してしまいます。
産業革命を起こしたイギリスの歴史には、学ぶところが多いでしょう。
■主要参考文献■
[1]マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』東洋経済(2014年)p49
[2]厚生労働省『平成29年(2017)人口動態統計の年間推移』
[3]マッシモ・リヴィ‐バッチ(2014年)p50
[4]マッシモ・リヴィ‐バッチ(2014年)p48
[5]マッシモ・リヴィ‐バッチ(2014年)p52
[6]ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ失敗するのか』ハヤカワノンフィクション文庫(2016年)上p175
[7]ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン(2016年)上p176
[8]ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン(2016年)上p176-178<
[9]ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命』名古屋大学出版会(2017年)p122-125
[10]ロバート・C・アレン(2017年)p20-21
[11]ロバート・C・アレン(2017年)p124
[12]ロバート・C・アレン(2017年)p68-69
[13]ロバート・C・アレン(2017年)p19
[14]ロバート・C・アレン(2017年)p103-104
[15]ロバート・C・アレン(2017年)p108-109
[16]ロバート・C・アレン(2017年)p98-99
[17]ロバート・C・アレン(2017年)p100
[18]ロバート・C・アレン(2017年)p119の訳注参照
[19]ロバート・C・アレン(2017年)p109
[20]ロバート・C・アレン(2017年)p93