はじめに

突然の破局を迎え

ただ、5年ほどたったころタカミさんは少し焦り始めます。

「このままだと立場的にも経済的にも子どもが産めない。35歳のときにそう思って、彼にせめて子どもだけは産みたいと言ったんです。彼は少し考えてから、『そうだよね』と。ふたりで納得の上、それまでずっと飲んでいたピルをやめました。いつ妊娠してもいいと思って覚悟を決めたんです。戸籍にはこだわりませんでした。子どもが生まれたら、奥さんが離婚してくれるかもしれないという期待もありました」

ところがなかなか妊娠はしませんでした。かといって不妊治療をする気にはなれなかったといいます。最優先は彼との生活、子どもは授かりものだと思うしかありませんでした。

「それから2年ほどたった今年の夏、ある日突然、彼のお母さんが訪ねてきたんです。日曜日の早朝でした」

彼の母は、タカミさんに向かって深く頭を下げました。

「この子の父親が昨晩、倒れました。今も意識は戻っていません。倒れる前にも息子夫婦の将来を心配していました。私はアユミ(彼の妻の名前)の苦悩をずっと見てきて、もう我慢してはいられない。そう思ったから来たんです。息子を返していただけませんでしょうか」

怒鳴られ罵倒されてもしかたがないと思っていた人に、土下座までされてタカミさんの心が揺れます。彼はそばで泣いていたそうです。

その涙を見たとき、タカミさんはこのままではいけないと強く感じました。

「私が別れないとごねることはできる。そうしたら彼はこのままの暮らしを続けてくれるだろう。でも、本当にそれでいいのだろうか。お母さんの伸びた白髪を見ながらそう思いました。彼が去った家庭では、義父母と奥さん、そして子どもたちも苦しんでいるに違いない。そしてこの人は私を責めてはいない。その懐の深さに負けたんです」

タカミさんは、彼に「荷物はあとで送るから、おかあさんと一緒に帰って」と言いました。不思議と涙は出ませんでした。
帰り際、彼の母はふくらんだ封筒を差し出しました。

「あなたの気持ちをお金でどうこうという意味ではありません。私たちの謝罪と受け取ってください」