はじめに

トヨタ2000GTの認識、どんなギャップがある?

そんな希少な存在であるトヨタ2000GTと言えば、数々の伝説に彩られた名車である事に異論を挟む人はいないはずです。その発売は1967年で、当時の販売価格は238万円でした。当時の大卒初任給が2万6千円ほどと言われていた時代ですから、現代の価値に換算すると2,000万円と言ったところでしょう。最新の日産GT-Rニスモが2,420万円ですから、同じような感覚かもしれません。いえ、当時のクルマに対する人々の感覚からすれば、今以上に特別な存在でしたから、単純な比較論は成り立たず、もっともっと高価で特別な印象があったかもしれません。

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2000GTに先駆けてパーツの復刻が行われた2世代のスープラ。上が1986年~1993年に発売されていたA70スープラと呼ばれる人気車。その跡を継いで1993年~2002年に発売されたのが下のA80。この2台からヘリテッジのプロジェクトがスタート。

すでにデビュー当時から特別な存在だったトヨタ2000GTには、開発段階から都市伝説のようなことがいくつも噂されていました。例えばヤマハと日産が共同で開発していたスポーツカーのプランを横取りしたとか、トヨタは何もやっておらず、ヤマハに丸投げしたとか、デザインはトヨタ内部では無かったとか、まぁ何とも賑やかでした。いや過去形ではなく、今もって似たような話はまことしやかに語られることがあります。

そんな中で私は、これまで取材の関係もあって開発段階から携わっていた多くの方々と実際にお会する機会を得て、数多くのお話をお聞きしてきました。

例えば1966年に当時のトヨタのワークスチームとして発足した「チーム・トヨタ」のリーダーにして、2000GT開発テストドライバー、そしてデザインのアシスタントを務められた細谷四方洋(ほそやしほみ)さん。クラウンのエンジンブロックを元にエンジンをヤマハとの共同作業によって仕上げて行った高木英匡(たかぎ ひでまさ)さん。初期メンバーとしてテストや開発に携わられた松田栄三(まつだ えいぞう)さん。そしてボンドカーの製造に関わり、後に初代ソアラの開発主査も務められた岡田稔弘(おかだ としひろ)さんなど、2000GTプロジェクトのメンバーとして活躍された方々と、何度となくお会いしながら、数多くの貴重なお話をお聞きすることができたのです。

そうした現場に身を置き、実際に開発されてきた方々のお話を総合すると、噂のほとんどが単なる憶測と言えるものばかりと言っていいでしょう。

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