はじめに
自らアジア貿易に乗り出したオランダ
ここでようやく、オランダの話に移ることができます。
16世紀初頭に始まった宗教改革により、ヨーロッパはカトリック勢力と新教勢力に二分されました。当時のオランダはスペインの支配下にある植民地であり、なおかつカトリックを奉ずるスペイン王室に対して、新教を信じる人々が多く暮らす地域でした。スペインに対する反発から、1568年には独立運動(※八十年戦争)が始まりました。
この地域では、もともとアントワープが貿易港として栄えていました。連載第5回にも書いたとおり、中世のフランドル地方は毛織物工業が盛んであり、アントワープはその玄関口だったのです。ところが独立運動にともなう混乱でアントワープは荒廃し、商工業者たち(とくに新教徒)は北部のアムステルダムへと押し寄せました。
時代は前後しますが、1556年にスペイン王に即位したフェリペ2世により、かの地では異端への弾圧が強まりました。結果、金融業に長けたユダヤ人たちが信仰と商売の自由を求めてアムステルダムに集まるようになりました[6]。
1580年、フェリペ2世はポルトガルの併合に成功しました。彼は敵国オランダの商業に打撃を与えるため、リスボンへのオランダ船寄港を禁じました。前述の通り、この時代の東アジア貿易の主役はポルトガルであり、高価な香辛料がリスボンに集まっていました。フェリペ2世の嫌がらせ的な政策により、オランダ人は香辛料を入手しづらくなったのです。[7]
しかし、オランダ人も黙ってはいません。リスボンで香辛料を買い付けられないなら、自分たちもアジアまで船を出そうと考えました。ポルトガル人にできて、自分たちにできないはずはない、と――。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」ということわざがあります。オランダは国土の大部分が低湿地帯であり、干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。長距離航海に耐える船を作るのに充分な技術を、すでに持っていたのです。
さらにポルトガルは小国であり、貿易網を維持するのに他国の人間を雇わざるをえませんでした。造船・操船の技術や植民地支配に関する情報は、16世紀末にはすでに漏洩していたはずです。
1596年6月、インドネシアのバンテンに滞在中だった6人のポルトガル人は、水平線を見て度肝を抜かれました。4隻のオランダ船が、港の正面に現れたからです。コルネリス・ド・ハウトマン率いるこの4隻こそ、初めてアジアに到着したオランダ艦隊でした[8]。
世界初の株式会社、オランダ東インド会社の設立
ハウトマン艦隊の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきました。
その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。
利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このことも、オランダ人たちの危機感を煽りました。
1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。
VOCが「世界最初の株式会社」と呼ばれる理由は、大きく3つあります。
第一に、当時の貿易会社の大半が当座企業(航海の開始時に出資を募り、終了時に清算・解散する企業)だったのに対して、事業継続を前提としていたこと。これにより、長期にわたる植民地の維持が可能になりました。
第二に、無限責任制から有限責任制に転じたこと。それまでの企業では、会社が倒産したら出資者はその会社の負債まで引き受ける必要がありました。これを無限責任制と呼びます。一方、有限責任制のもとでは、出資者は出資した額以上の損失を被ることはありません。人々が、より気軽にカネを投資できるようになったのです。
第三に、持ち分としての株式の譲渡が自由になったこと。つまり、株式の所有権を、市場で自由に売買できるようになりました。
こうしてアムステルダムの証券取引所では、VOCの株式がさかんに取引されるようになりました。ヴェネチア、ポルトガル、スペイン、イギリス、そしてオランダ――。胡椒の生み出す冨は飽くなき欲望を呼び覚まし、近代的な資本主義を産み落としたのです。
■参考文献■
[1]ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋(2015年)p283
[2]マージョリー・シェファー『胡椒 暴虐の世界史』白水社(2014年)p35-36
[3]永積昭『オランダ東インド会社』講談社学術文庫(2000年)p21-22
[4]ジャック・アタリ『1492 西欧文明の世界支配』p174-185
[5]マージョリー・シェファー(2014年)p54
[6]永積昭(2000年)p56
[7]永積昭(2000年)p60
[8]永積昭(2000年)p44