はじめに

葬式でも経済を動かした岩崎弥太郎

近代日本のビジネスを牽引した大富豪・ 岩崎弥太郎 は、その死においても豪快でした。

明治18年(1885年)2月7日、まだ50歳の岩崎に死が迫っていました。大名華族の柳沢家から買い取った六義園の別邸で胃ガンの闘病生活を送っていた岩崎ですが、自分の後継者を誰にするかなどの言葉をつぶやくことは一度もありませんでした。

同7日16時、岩崎の呼吸は一時停止し、医師にカンフル注射を打たれてなんとか息を吹き返します。18時、岩崎は母親や姉妹の名を大声で呼びつけると、集まった家族や会社幹部たちの前で「事業の相続者を長男の久弥にする」と告げました。

最後の力を振り絞ったのでしょう、「腹の中が裂けそうだ、もう何も言わん」と沈黙したのち、布団の中から医師団に一礼。右手を高く掲げながら亡くなるドラマティックな死に様を見せつけました。

驚愕の葬儀費用

世間が目を剥いたのは、岩崎の葬儀の豪華さです。13日の葬儀のために雇われた人夫(=アルバイト)の数はなんと 7万人 。当時の富裕層のお葬式で100人程度、多い時でも1000~1500人程度が標準的でしたから、まさに岩崎家がケタ外れの葬儀を行おうとしていることが知れました。また、人夫には警視庁から“借用”した巡査数十名なども含まれていたそうです。

岩崎の葬儀は神式で行われました。明治のセレブリティの葬儀は神式が人気だったのです。祭主は出雲大社宮司にして、議員や東京府知事も歴任した千家尊福男爵で、式には政界の大物やビジネスエリートたち3万人が集いました。反・岩崎、反・三菱の先鋒だった渋沢栄一の姿すら見られ、岩崎弥太郎が“経済の巨人”だったことが肌身に染みてわかる式だったようです。

岩崎は生前、染井村にある公営墓地の敷地を買い占めていました。さらに埋葬用の土地だけでなく、墓を建設するための資材置き場として2000坪も買い増しされ、この土地にはのちに三菱社員専用墓が作られることになりました。

式の当日、駒込の岩崎邸から染井墓地にまで、壮麗な葬列が続いたそうです。染井の岩崎墓所では「埋葬式」が行われ、食事や菓子の大盤振る舞いがありました。

当時の新聞の報道は、会社によって数字がかなり異なります。「東京日日新聞」によると、会葬者に用意された食事は西洋料理・日本料理の立食式で6万人前。「東京横浜新聞」によると日本料理は3万人ぶんのお弁当、外国人の会葬者用には上野の精養軒に300人前の洋食が注文されました。さらにお菓子も6万人ぶんが用意されたそうです。

この菓子は会葬者だけでなく、集まってきた貧しい人々にも配られたようですね。もともと岩崎は、自邸周辺の貧しい人々にとつぜん大金を与えることがありました。葬儀の前、岩崎邸の周りにはひれ伏して最後の施しを待つ人々の姿まであったとか……。

そんな岩崎弥太郎のお葬式の予算は総額1万円。明治期の1円=1万円として考えれば1億円ですが、当時の社会状況においては 10億円 相当だったと見る人もいます。「さすがは岩崎、死してなお自分の葬儀で経済を動かした」などと日本中の噂になりました。

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