はじめに

松下村塾の授業料が無料だった理由

吉田松陰 の引力に引き寄せられるかのように、幕末の日本史に名を残す偉人たちが集った伝説の私塾・松下村塾。

高杉晋作や久坂玄瑞をツートップに、師匠思いの入江九一(杉蔵)、努力型の天才だった吉田稔麿の4人が「松下村塾の四天王」でした。ほかにも初代内閣総理大臣にまで出世する伊藤博文、天才的な軍略家だったがゆえに「小ナポレオン」との異名を取り、日本大学の創始者になった山田顕義、さらには日露戦争を勝利に導き「軍神」と呼ばれた乃木希典なども学んでいました。

弁当も無料だった松下村塾

松陰が主宰した松下村塾は、現代人のわれわれが考える学校のイメージをすべて裏切るような独創的な場所だったことが知られています。

授業料は 無料 。それどころか、弁当を持ってこられない塾生がいたら、塾側から食事も無料で出されたといいます。それゆえ身分を問わず、さまざまな塾生が数多く集まりました。

当初、塾があったのは松陰の実家・杉家の座敷です。松陰は幼い頃、ここから吉田家へ養子に出されました。杉家は極貧です。藩からの固定給はなく、時々与えられる仕事に応じた薄給しかもらえない、まるで現代の派遣社員のような雇われ方をしていました。

運よく仕事があったところで、報酬は年額たった26石。幕末の1両=1万円とする通常のレート計算では年収26万円、労賃レートにより1両=10万円で計算しても年収260万円にしかならず、家族数が多い杉家の台所事情は厳しいものでした。よって塾生に提供する食事も、おにぎりと漬物だけで精一杯だったのです。

それでも授業料無料、食費まで無料を貫く私塾・松下村塾の運営姿勢は、「 目上の者は目下の者の言葉に常に耳を貸さねばならない 」という松陰の哲学が反映されたものです。貧しい者にも学ぶ機会を設けるのが自分の仕事である、と彼は考えていたようですね。

授業もかなり独創的でした。塾生たちにはすでに仕事をしている者も多かったので、くるのも帰るのも自由で、人が集まってきたら深夜早朝、時間を問わずに授業が始まるのが通例でした。時には塾生全員で山登りや水泳に行き、武芸の授業もありました。

松陰がとくに力を入れて教授した科目は地理と歴史だったそうです。彼は話がとても上手かったので、塾生は増える一方で、安政5年(1858年)には杉家の敷地内に離れの建物が増築されるほどになります。

青春の終わり

ところが、松下村塾が続いたのは約2年と少しだけの間だけでした。熱心な攘夷派だった松陰が「日米修好通商条約」の調印を行った老中の暗殺計画を進め、それを自ら長州藩に訴え出たことがきっかけで、彼の身は獄に繋がれたからです。

お騒がせタイプの天才だった松陰。彼が入獄するのはこれで2回目でしたが、幕府の要人暗殺計画を企てた罪は見逃されうるものではありませんでした。江戸まで引き立てられたあげく、形だけの審議を受けた末に、松陰は斬首刑に処せられてしまったのです。

松陰は獄中から高杉晋作に手紙を書いて「 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし 」と訴えていました。死ぬにせよ生き続けるにせよ、国家のためにその身を捧げよ。そんな松陰のメッセージを受け取った塾生たちは、テロ活動にも身を投じることになったのです。

松下村塾は悲しい終わりを迎えました。しかし、わずかな期間だけでも塾に顔を出した者たちは、口を揃えるように松下村塾の楽しい思い出を語っています。それは塾での日々が、幕末の若者たちに許された短い青春だったからでしょう。

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