はじめに
いまや生活者にとって不可欠な存在になった「100円ショップ」。巷では「100円均一」とか「100均(ひゃっきん)」などの略称も定着しています。
この種の業態が登場したのは、おおよそ1960年代以降と言われます。まず1960年代にスーパーマーケットなどの「催事販売」として、100円均一商品を売る業者が現れたのが、そもそもの始まりでした。1980年代に入ると「店舗」としての100円均一商品の販売店が登場。これが「100円ショップ」を名乗ったのです。1990年代以降になると、この業界に参入する企業も増加。ザ・ダイソー、キャンドゥ、セリアなどのブランドがしのぎを削るようになりました。
そんな「100円ショップ」と同じような業態が、実は「昭和初期」にも存在していたことをご存知でしょうか? その名も「十銭(テンセン)ストア」といいます。これは生活雑貨や文房具品などを10銭均一で販売する店舗のことで、当時の小売業界を席巻したビジネスモデルでもありました。
ところで――いま筆者は何気なく書き飛ばしましたが――この「十銭ストア」は「じゅっせんストア」とか「じっせんストア」とは読まずに、どういうわけか「テンセンストア」と読みます。10をわざわざテン(ten)と呼んでいるわけです。
ではなぜ「十銭ストア」を「テンセンストア」と読むのでしょうか? その理由を探ると、価格均一ショップというビジネスモデルの「奥深さ」が透けて見えてきます。
昭和初期の「100均」とは?
十銭ストアを日本で初めて展開したのは、なんと百貨店の「高島屋」でした。
まず1926年(大正15年)に、高島屋は大阪長堀店において「なんでも10銭均一売場」を展開。これが人気を博しました。ちなみに当時の10銭はキャラメル1箱(20粒)や、駅の入場券ほどの価値だったといいます(参考「値段史年表 明治・大正・昭和」朝日新聞社)。
余談ながら当時の日本では「円タク」(乗車料金が1円の定額タクシー)や「円本」(分冊が各1円均一の全集本)などの価格均一ブームも起こっていました(注:1円=100銭)。おそらく高島屋の試みは、そのようなトレンドも汲んでいたのでしょう。
続いて高島屋は1930年(昭和5年)に大阪南海店の一階中央に「10銭ストア」という看板を掲げて10銭均一売場を新設。さらに1931年(昭和6年)には、高島屋10銭ストア(のちに高島屋10銭20銭ストアの名称も用いた)のチェーン展開も開始。このチェーン店は1941年(昭和16年)には全国106店舗にまで増えることになりました。しかしながら第二次世界大戦の激化にともない、そのほとんどの店舗を閉鎖するに至ります(参考:高島屋ウェブサイト「高島屋の歴史」など)。
どんな商品を売っていたの?
ここでまず気になるのは、当時の十銭ストアがどんな商品を売っていたのかという疑問です。調べてみると、現代の100円ショップに負けずとも劣らない、実に豊富な品揃えだったことが分かりました。
1931年(昭和6年)出版の書籍『十銭均一店と其の仕入研究』(仕入案内社)には、高島屋が展開していた10銭均一商品の一覧が載っていました。これによると、鞠(まり)付きラケット・別珍人形(別珍=ビロード)・木製ラッパなどの「玩具」、折り紙・大学ノート・墨汁・ポチ袋・シャープペンシル・日記帳などの「文房具」、タオル・ハンカチ・布巾などの「衣料雑貨」、石鹸・櫛(くし)・鏡などの「化粧雑貨」、子ども用靴下などの「子ども雑貨」、絹糸・針山などの「手芸品」、花瓶・陶器などの「容器」、タワシ・キセルなどの「日用品」、爪切り・フォーク・缶切り・ノコギリなどの「金物」、孫の手・まな板などの「家庭用品」が揃っていたようです。
こうしてみると、現代の100円ショップと昭和初期の十銭ストアが取り扱う商品のジャンルには、さほど大きな違いはないようですね。
十銭(テンセン)のブーム化
そして十銭(テンセン)ストアの人気は社会に意外な影響を与えることになります。幅広い業種に「十選(テンセン)○○」と呼ぶサービスが広まったのです。
例えば作家・織田作之助が1946年(昭和21)に発表した短編小説『世相』には、次のような一節が登場します。
「もう十年にもなるだろうか、チェリーという煙草が十銭で買えた頃、テンセン(十銭)という言葉が流行して、十銭寿司、十銭ランチ、十銭マーケット、十銭博奕(ばくえき=博打)、十銭漫才、活動小屋も割引時間は十銭で、ニュース館も十銭均一、十銭で買え、十銭で食べ十銭で見られるものなら猫も杓子も飛びついたことがある」。ちなみに筆者は、織田作之助が紹介した事例のほかにも、十銭鍋、十銭雑誌、十銭石鹸といった例も確認しています。
このうち十銭漫才については少し説明が必要です。この十銭漫才とは、1930年(昭和5年)に吉本興業が大阪・千日前の南陽館で始めた興行のこと。映画館の一般席が40銭、寄席の木戸銭が60銭だったころに、10銭の入場料で漫才興行を行ったわけです。
これについて漫才師で女優のミヤコ蝶々(1920~2000)は「たちまちデパートが真似て『十銭ストアー』を開くほどの大人気となった」と述懐していました(日本経済新聞1998年2月4日「私の履歴書・ミヤコ」蝶々・3)。彼女の記憶が本当ならば、十銭ビジネスの先鞭を付けたのは吉本興業で、それを真似たのは高島屋となるのかもしれません。ただ前述の通り、高島屋が最初に「なんでも10銭均一売場」を始めたのは1926年(大正15年)――つまり、十銭漫才が始まった1930年より前――のことなので、「少なくともビジネスモデル」に関しては高島屋の方が先鞭を付けていたことになりそうです。
ともあれ当時はなんでも「十銭○○」と名付けて、ビジネスを展開するブームも起こっていたわけです。