はじめに

進化論で有名なチャールズ・ダーウィンですが、実は『種の起源』の印税収入で生活していたわけではありません。現在の科学者の多くのように、大学で教鞭を執っていたわけでもありません。意外と知られていないことですが、彼は投資家でした。1809年に生まれて、イギリスの産業革命とともに生きた人物です。抜け目ない投資により、父から受け継いだ財産を大幅に殖やして生涯を終えました。

彼の一生を知れば、長期投資で成功するヒントが得られるかもしれません。


お金持ちだったダーウィン一族

もともとダーウィンの一族がかなりのお金持ちだったことは、よく知られています。

母方の祖父はウェッジウッド一世。あの高級陶器メーカー〝ウェッジウッド〟の創設者です。一方、父方の祖父エラズマス・ダーウィンは高名な医者であり詩人でした。どちらも自由主義的で、宗教的な保守主義からは距離を置いた家風だったようです。

父親ロバート・ダーウィンの時代には、一族は大地主(スクワイア)階級になっていました。日本人の私たちから見るとイギリスの階級制度は複雑怪奇なのですが、貴族や騎士のような爵位は持たないものの、地代収入という不労所得を持つ上流階級のひとつのようです。今の日本でいう〝地元の名士〟でしょうか。エラズマスほどではないものの、ロバートも医者として地位と名声を得ていました。

チャールズ・ダーウィンは、ロバートにとって2人目の男児でした。ダーウィンは母親を幼いころに失くし、年の離れた姉たちに囲まれて育ちました。幼いころから自然科学には興味があったようで、石ころや貝殻を集めたり、兄と二人で裏庭に研究室を建てて、怪しげな化学実験に精を出したりしていたようです。父親からは、医業を継ぐことを期待されていました。

ところがダーウィンには、医者の適性がありませんでした。

彼は16歳からエディンバラ大学で医術を学び始めましたが、当時はまだ麻酔技術が確立しておらず、泣き叫ぶ患者を切り刻むことができなかったのです。彼は大学を2年で中退し、パリに遊びに行くなどしています。医者がダメならせめて聖職者になれ――、という父からの言いつけで、ダーウィンはその後、ケンブリッジ大学に進みました。英国国教会の聖職者になれば、一家の名声を傷つけることもなく、一定の給料を受け取ることができたからです。

しかしケンブリッジ卒業後、ダーウィンはすぐには働きたくないと思っていたようです。フンボルトの冒険譚に憧れていた彼は、自分も世界を旅してみたいと考えていたのです。このあたりのモラトリアムっぷりは、何というか現代日本のダメな大学生みたいで共感を覚えます。父親の反対を押し切り、ダーウィンはイギリス海軍の科学調査船ビーグル号で世界一周の旅に出ました。当初は2年ほどで帰国できる予定でしたが、結局、5年間の長旅になりました。

この旅のなかで、ダーウィンはいくつもの科学的に重要な発見をします。絶滅した大型哺乳類の化石を発見したり、サンゴ礁の形成過程について新理論を打ち立てたり――。帰国するころには、新進気鋭の博物学者として注目されるようになっていました。聖職者になるという父との約束は、いつの間にかうやむやになってしまったようです。

1839年、30歳のときに従姉妹のエマと結婚。さらに1848年に父ロバートが没すると、(正確な額は不明ですが)約45,000ポンドほど遺産を受け継ぎました。ここから、ダーウィンの投資家としての生活が本格化します。

ちなみに、シャーロック・ホームズのファンの間では、19世紀の1ポンドは現代日本でいう約24,000円ぐらいの価値だと言われています。[1]

この金額で換算すれば、ダーウィンは10.8億円ぐらいの遺産を得たことになります。

とはいえ、これはワトソンの生活を現代日本のそこそこ豊かなサラリーマンぐらいだとした場合の金額であり、当時は現在とは比べものにならないほど過酷な経済格差があったことには注意すべきです。また、シャーロック・ホームズの時代は19世紀末~20世紀初頭である一方、ダーウィンの時代は19世紀半ばです。19世紀のイギリスは物価が安定しており、どちらかといえばデフレ傾向だったとはいえ[2]、時代には開きがあります。[2]

(※そもそも科学技術も店頭に並んでいる商品もまったく違うのだから、現代の日本円に換算することに意味があるのかという疑問がないわけでもありませんが――、それを言ってはおしまいです)

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