はじめに

投資家ダーウィン

話を投資家としてのダーウィンに戻しましょう。

厭世的なイメージとは裏腹に、ダーウィンは新聞をよく読み、知人・友人と頻繁に手紙をやりとりして、世の中の事情に通じていたようです。そうでなければ、投資で大きく稼ぐことなどできるはずがありません。当時のイギリスは鉄道網が急速に広がり、工業が大きく発展している時代でした。ダーウィンは当初は土地に投資を行い、その後は鉄道株等にも投資先を広げていきました。

1851年にはロンドンで第1回万国博覧会が開催されました。ここにダーウィンも見物に出かけています。

目玉となったのは、ガラスと鉄骨でくみ上げられた水晶宮(クリスタル・パレス)という巨大建築。当時のイギリスの工業力を誇示する建物でした。万博後、水晶宮はロンドン近郊のシドナムに移築されて観光名所になります。ここで開催されたイベントに、ダーウィンは家族や友人をともなって度々足を運びました。彼は必ずしもお祭り騒ぎが嫌いだったわけではなさそうです。

ダーウィンの投資成績を確認してみましょう。

1848年の父からの遺産相続後、1850年代には年間約5,000ポンドの投資収入があり、そのうち約2,000ポンドを再投資していたようです。1860年代には年収は約6,000ポンド、70年代には約8,000ポンドに膨らみました。

晩年の1881年には、25万ポンドを超える資産を形成していました。先ほどの換算で日本円に直せば、60億円超。大富豪ですね。

ダーウィンの伝記を読んで感じるのは、思いのほか「普通っぽい」ということです。

たとえば学生時代のモラトリアムっぷりは、現代日本の私たちにも共感できるものです。数学が苦手で、学生時代にはそれで苦しみました。当時、ケンブリッジ大学の卒業試験には優等試験と普通試験という2つのコースがあったのですが、高等数学の能力を求められる優等試験をダーウィンは諦めています。また、「神様のような存在」は何となくいそうな気がしているけれど、信仰にそれほど篤いわけではなく、晩年には無神論者・不可知論者になってしまう――。このあたりも現代的です。

経済史家のグレゴリー・クラークは「金持ちの生活を通じて未来を予測できる」と述べています。[1]

19世紀には一部の富豪にしか許されなかったモラトリアムや自分探しの旅が、現代日本ではそこそこ豊かな庶民にまで広まりました。言ってみれば、チャールズ・ダーウィンは現代的な思考や価値観を先取りした人物だったのかもしれません。

またダーウィンは、いわゆる〝天才型〟の科学者ではありませんでした。たとえばニュートンやライプニッツ、あるいはニコラ・テスラやアインシュタイン、フォン・ノイマン……。高度な数学的センスを持ち、常人では理解できない数式を解き明かす。そんなタイプの科学者ではありません。

では、ダーウィンの卓越した点はどこにあったのでしょうか。

それは「慎重さ」と「しぶとさ」、「几帳面さ」だと、私は思います。『種の起源』の発表までに20年かけたことが象徴的ですが、結論を急がず、充分な情報を集め尽くすまでは納得しない。そういう並外れて丁寧な研究姿勢が彼の特長でした。結果、『種の起源』は簡単には論破できない一冊となり、歴史を変えたのだと思います。

そんな几帳面な性格が、投資の成功にも役立っていたのかもしれません。

■主要参考文献■
A・デズモンド、J・ムーア『ダーウィン―世界を変えたナチュラリストの生涯』工作舎(1999年)
松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会』朝日選書(2009年)
松永俊男『ダーウィンの時代―宗教と科学』名古屋大学出版会(1996年)
A・デズモンド、J・ムーア『ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ』NHK出版(2009年)

[1]太田隆『シャーロック・ホームズの経済学』(2011年)p14
[2]太田隆(2011年)p164
[3]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)上p20

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