はじめに
財務省理財局を入り口に「理財」という言葉の背景を探る記事の後編です。前編では、理財の「意味」が「金銭・財産をうまく運用すること」だと紹介しました。後編の今回は理財の歴史について分析してみましょう。
実はこの言葉。もともとは中国の古典に登場する古い言葉であるだけでなく、明治から大正の一時期に「経済」という言葉と覇権を争ったこともあるという、非常に面白い歴史を持っているのです。
和製漢語という考え方
話の大前提として、まず「和製漢語」という概念について説明しなければなりません。
和製漢語とは「中国から日本語に入ってきた漢語に対し、日本で作った漢語」(広辞苑・第7版)のこと。「物騒」「大根」などの例があります。
そのような和製漢語の中には、幕末から明治にかけて外国語の和訳として登場・定着した言葉もたくさんありました。その代表例が「経済」であったり、今回話題にしている「理財」だったりするのです。
ところが「経済」も「理財」も、厳密には幕末に日本で初めて登場した表現ではありませんでした。詳細は後ほど述べますが、両語とも中国の古典に同形の熟語が登場しているのです。これをもって「経済や理財は和製漢語と呼ぶにはふさわしくない」とする立場も存在します。
しかし一方で「中国の古典に登場した経済・理財の意味と、幕末以降の日本で定着した経済・理財の意味には隔たりがあるので、これを和製漢語と呼んでも差し支えないのでは?」とする立場もあります。筆者はこのうち後者の立場をとったうえで、以降のコラムを書き進めることにしましょう。
ともあれ「経済」も「理財」も、中国の古典に登場しており、幕末以降に新しい意味を獲得した――とだけ、ここでは覚えておいてください。
江戸以前の「理財」はマイナー
さていよいよ「理財」の歴史の話です。
この言葉は、儒学の基本経典である五経(5つの経典)のひとつ「易経(えききょう)」に付された解説書のうち『繋辞伝(けいじでん)』の上編に登場するのが、もっとも古い用例と言われています。解説書の成立時期は秦(しん)か漢(かん)の時代と言われていますので、おおまかには紀元前200年~紀元900年あたりのどこかで登場していた表現ということになります。
その繋辞伝に登場する表現とは「理財正辞」というもの。訓読すると「財を理(おさめ)め、辞(じ)を正しくす」となります。これは言い換えると「財物をただしく管理して、ものごとの道理を正しく判断する」という意味なのだそうです。
ただこの「理財」という言葉は、江戸時代以前の日本では、存在感の薄い言葉であったようです。筆者の知る数少ない例外は、幕末に山田方谷(やまだほうこく)が書き上げた『理財論』(1836年・天保7年)です。彼は備中松山藩で財政再建にとりくんだ人物で、「理財論」はその方法論を論じた書物でした。
このような例外はあるものの、江戸以前の「理財」という言葉はマイナーな存在だったのです。
江戸以前から「経済」はメジャー
その一方、「経済」という言葉は、江戸以前の日本語でもそこそこ存在感のある言葉であったといいます。
そもそも「経済」という言葉は、中国の古典に登場する「経世済民」「経国済民」「経世済俗」などの表現を略したものです。これは有名な雑学なので、ご存知の方も多いことでしょう。意味は「世をおさめて、民を済(すく)う」こと。現代的に表現するなら「治世」を意味する言葉でした。これらの熟語のうち「経世済民」は東晋の時代(317年~420年)に用例が存在しており、またその略語である「経済」も唐の時代(618年~907年)に登場するようになったといいます。
これらの表現は江戸以前の日本でも大きな存在感がありました。というのも、江戸中期に「経世済民論」と呼ばれる思想体系が登場していたからです。
経世済民論とは、『世界大百科事典』(平凡社)の説明によると「主として江戸中期以降に形成された〈治国平天下〉の論。今日でいう政治、経済、社会を論じ、生産増強、消費節約などを内容とする」とあります。これは現在でいう経済を含む内容ではありますが、その根本は「治世」に立脚した思想体系でした。
そして、この経世済民論を説く書籍において「経済」という略語もよく登場したのです。代表例には、太宰春台が著した『経済録』(1729年・亨保14年)や佐藤信淵が著した『経済要略』(1827年・文政10年)などがそうでした。
このように江戸以前の日本語でも、「経済」という言葉自体はメジャーな存在であったわけです。