はじめに
京都大学の本庶佑(ほんじょ・たすく)特別教授が10月1日、ノーベル生理学・医学賞を受賞することが決まりました。本庶氏は、人間の体を守る「免疫細胞」の働きにブレーキをかけるたんぱく質「PD-1」を発見しました。そのブレーキを取り除くことで、がん細胞を攻撃する「がん免疫療法」の開発につなげた功績が高く評価されました。
本庶特別教授らの研究チームが小野薬品工業と共同開発した免疫チェック阻害剤「オプジーボ」(免疫細胞の働きにブレーキをかけるのを阻む薬剤)は、がん治療に新しい切り口を開き、がん治療分野で出遅れていた日本の面目躍如となりました。
本庶氏の受賞を受けて、翌2日の東京株式市場で、小野薬品の株価は一時、前日比220円高の3,430円まで買われました。ところがその後、戻り売りが出て、終値は同98円高の3,308円となりました。株価の伸び悩みからは、日本の医薬品開発現場の苦悩が見て取れます。
株価の重荷は「特別薬価引き下げ」
時計の針を2年半前まで巻き戻してみます。小野薬品の株価は当時、オプジーボの成功を好感して、2016年4月には一時5,880円まで上昇しました。今月2日の終値3,308円は、その時の高値から44%も低い水準です。
今回のノーベル賞受賞で、本庶氏と小野薬品の功績の大きさは再確認されました。それでも、小野薬品株への当時の熱狂が株式市場に戻ることは、ないかもしれません。
なぜなら、売り上げがどんどん大きくなる画期的新薬を出すと日本の医療保険財政を圧迫するので、「特別薬価引き下げ」によって価格を大きく引き下げられてしまうことがわかったからです。
期待を集めた“夢の新薬”
2016年4月、小野薬品株はオプジーボ成長の期待から沸いていました。これまでの治療方法(手術、抗がん剤、放射線治療)で治癒できないがんも、治癒できる可能性があることがわかり、夢がどんどん膨らんでいるところでした。
オプジーボは、2014年7月に皮膚がん(メラノーマ)の治療薬として上市されました。当初、市場規模の大きくない分野でスタートしたわけです。
ところが2015年末に、市場規模の大きい非小細胞肺がん(肺がんの一種)の2次治療に適用が拡大されてから、売上高が急拡大し、注目が高まりました。その後も、胃がんの3次治療など、適用範囲の拡大が続いています。
先行き、さまざまな種類のがんに適用が拡大していく可能性があることから、夢が膨らみました。非小細胞肺がんでも、1次治療への適用拡大があれば、市場規模はさらに拡大します。現時点でオプジーボの肺がん1次治療への適用拡大は認められていませんが、期待は残っています。
急速にしぼんだオプジーボの夢
ここで小野薬品の成長の夢を打ち砕いたのが、薬価の大幅引き下げでした。オプジーボは開発・製造に多大なコストがかかる高額医薬品で、肺がんの治療では当初の薬価で年間約3,500万円もの費用がかかりました。
ただし、その7割を医療保険で補填し、さらに国の高額療養費支給制度の適用を受ければ、患者本人の負担は約120万円程度で済む場合がありました(年収などの条件を満たす場合)。患者にとってありがたい制度ですが、これでは保険財政が持たないとの危機感が広がりました。
そこで、オプジーボの薬価は特別ルールによって半額以下に切り下げられました。売り上げが拡大すると薬価が大幅に引き下がる仕組みが導入されたことによって、小野薬品の利益が大きく伸びる期待は低下しました。
さらに追い討ちをかけたのが、競合薬の出現です。米製薬大手メルクの「キイトルーダ」、中外製薬(スイス製薬大手ロシュの子会社)の「テセントリク」は、オプジーボと同じ仕組みの免疫チェック阻害剤です。キイトルーダは、オプジーボが取れなかった肺がん1次治療への適用拡大を、先に認められました。
小野薬品の株価伸び悩みが映すもの
日本の公的医療保険は、世界に誇れる、非常にすぐれた公的医療制度といえます。海外では、医療保険に入れず、病気になってもお金がないために治療を受けられない人がたくさんいます。日本は公的医療保険が充実しているため、低所得でもかなりの高度医療が受けられるようになっています。
ただし、その制度を守る必要から、日本では高額の画期的医薬品が生まれにくくなっています。武田薬品など日本の医薬品大手は、国内で画期的新薬を開発することをあきらめ、医薬品の開発を海外主導に切り替えています。
日本のある製薬大手企業の幹部は、「がんになったらスイスに治療に行く」と言っていました。日本にない最先端のがん治療が受けられるからです。
世界での新薬開発は今、バイオ薬が主流となっています。バイオ薬は生物の働きを利用して医薬品を作るものです。これまで治療が難しかった3大疾患(がん、アレルギー、ウイルス性疾患)に治療の道を開くものとして、注目が高まっています。オプジーボも、その一種です。
問題は、バイオ薬は開発・製造に高いコストがかかるので、高額医療となることです。言葉は悪いですが、欧米では「金持ちだけが受けられる医療」となりつつあります。国民皆保険で低所得でもかなりの高度医療を受けられる仕組みを作っている日本では、高額の医薬品開発は進みにくい状況が続いています。
(写真:ロイター/アフロ)