はじめに

16世紀、「太陽の沈まない国」となったスペイン帝国は、新大陸から湯水のように金銀を入手することができました。にもかかわらず、王室の財務状況は常に劣悪で、ほぼ20年ごとに債務不履行を宣言するような状況でした。

このような状況に陥った理由と、当時のヨーロッパの文化的背景を見ていきましょう。


反プロテスタントを掲げたスペイン

スペイン帝国の財政が火の車だった理由は明らかで、入ってくる銀をはるかに超える費用を戦争で浪費していたからです。新大陸から貴金属がもたらされるようになった時期は、カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として即位した時期と重なります。彼の野心は留まるところを知らず、他国への侵略へと駆り立てました。

この戦争への浪費は、カルロスの息子フェリペ2世の時代になっても止まりませんでした。親子2代に渡り、スペイン帝国はフランス、イギリス、オランダと戦い続けました。[12]

16世紀は、ヨーロッパを宗教改革が吹き荒れた時代でもあります。以前の連載でも書いた通り、15世紀後半に発明された活版印刷により、世紀の変わり目には出版事業が新たなビジネスとして花開きました。教会やギルドに独占されていた知識は、もはや文字が読める人なら誰でも触れられるようになりました。人々は印刷された書物を読むことで、新たな思想や価値観を盛んに議論するようになったのです。

スペインは歴史的にローマ・カトリック教会との関係が深く、宗教改革には反対する立場を取りました。ネーデルラント(現在のオランダ周辺)にはカルヴァン派のプロテスタント信者が多かったため、この地を支配していたフェリペ2世はカトリック化政策を押しつけます。これが後のオランダ独立の原因となります。

また、フェリペ2世の妻はイングランドの女王メアリー1世です。彼女は熱烈なカトリック信者であり、イングランドのプロテスタントを迫害しました。余談ですが、彼女の父親であるヘンリー8世がイングランドの宗教改革の口火を切ったことを考えると、これは皮肉です。当時のカトリック教会は離婚を禁じていましたが、ヘンリー8世はそれが気に入りませんでした。彼は自分が離婚するために、ローマ・カトリック教会と決別し、英国国教会を創設したのです。メアリー1世は多数のプロテスタント信者を処刑したことで知られています。ウォッカをトマトジュースで割ったカクテル「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」は、彼女のあだ名が由来です。[13]

フェルナンドとイザベラの時代から、スペインには異端審問所がありました。が、フェリペ2世の統治下で、その活動は激しさを増します。学者を逮捕し、学生の海外留学を禁じ、北ヨーロッパで広まる新しい思想をシャットアウトしたのです。[14]

無敵艦隊の敗北

この時代のスペイン帝国の戦争で、特筆すべきは「アルマダの海戦」と「オランダ独立戦争」でしょう。

イングランドでは1558年、メアリー1世の腹違いの妹であるエリザベス1世が即位しました。彼女は姉とは違い、英国国教会を支持しました。これだけでも、スペインのフェリペ2世からすれば面白くなかったはずです。

さらに彼女は、スコットランド女王のメアリー・ステュアートを処刑してしまいます(※先述のブラッディ・メアリーとは別人です。この時代にはメアリーという人物がたくさんいてややこしいですね)。メアリー・ステュアートはカトリック教徒であり、フランス国王と結婚していました。イングランドはフランスと決別し、反カトリックの立場を明らかにしたのです。これにより、フェリペ2世のイングランドに対する心証は最悪になりました。

加えてエリザベス1世の元では、海賊フランシス・ドレイクの私掠船(しりゃくせん)が活躍していました。私掠船とは、国家から許可を得た海賊船のことです。敵国の商船を襲うことで戦争に協力していました。1587年4月19日、ドレイク率いる20隻の船団がカディス港を襲撃し、スペイン船30隻を捕獲、5隻を焼き払いました。[15]スペイン本土の港で略奪行為を働いたのです。

当然、フェリペ2世は激怒しました。

彼はイングランド本土に攻撃を仕掛けるため、ポルトガルのリスボン港に空前の大艦隊を集結させます(※当時のポルトガルはスペインに併合されていました)。主力のガレオン艦65隻に、補給船54隻とガレー船8隻、港から出港するだけでも3日間かかるほどの巨大船団でした。

対するイギリスといえば、王立の海軍そのものはヘンリー8世の時代には登場していました。[16]しかしその規模は小さく、エリザベス1世が用意できたのは34隻にすぎません。彼女の呼びかけに応えた会社や個人が商船を提供し、どうにか197隻の艦隊を編成することができました。数の上では上回っていますが、所詮は寄せ集めです。対するスペインのガレオン艦は当時最強の兵器でした。

同年7月20日、イギリスのプリマス沖で両海軍は衝突します。

世に名高い「アルマダの海戦」の始まりです。

それからおよそ7日間かけて、両海軍はドーバー海峡を東進しながら戦闘を繰り返しました。たしかに軍備と国力はスペイン帝国の方が勝っていたでしょう。しかし、いざ蓋を開けてみれば、艦の運動性能、乗員の練度、砲戦術のすべてにおいてイングランド海軍の方が優れていました。さらにスペイン側の司令官が、華々しい家柄の生まれではあるものの、「洋上に出たらすぐに船酔いしてしまう」ような素人だったことも致命的でした。

フランシス・ドレイクの放った火船戦法(※燃料を積んで燃えさかる小船を敵船に横付けする戦術)が決定打となり、スペイン艦隊は北海へと逃走します。

スペイン艦隊は悲惨な航海を続け、サンタンデール港にたどり着いたのは9月11日です。戦闘で喪失した艦は4隻にすぎなかったものの、荒天により24隻が沈没し、35隻が行方不明となりました。イングランドの完勝でした。

アルマダの海戦という名前は、スペイン艦隊を意味するSpanish Armadaから来ています。日本では「スペイン無敵艦隊」と呼ばれることも多いのですが、当時のスペインが無敵を自称したことはありません。19世紀のスペイン海軍大佐が「La Armada Invincible」という論文を発表し、以降、イギリス側では揶揄的な表現として「無敵艦隊」という言葉がごく稀に使われるようになったようです。[17]

問題はお金です。

このときのスペイン艦隊を編成するために、フェリペ2世は国家予算5年分の費用を投じていました。[18]それだけのお金が、わずか1週間ほどの海戦で無に帰してしまったのです。

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