はじめに
オランダという収入源も失う
ネーデルラントは現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの辺りを指す地名です。
16世紀前半にはアントワープがその中核都市となり、北イタリアをしのぐ国際貿易の中心地になっていました。北東にはハンザ同盟の諸都市があり、南には毛織物を産出するフランドル地方があります。物と人と金が行き交う場所だったのです。アントワープにはスペインやポルトガルの商船も入港し、新大陸の金銀や東アジアの香辛料を届けていました。
スペイン帝国にとってネーデルラントは、ポトシの銀にも増して重要な収入源でした。帝国の税収の40%は、この地方の中産階級の人々によって支払われていたのです。[19]
実のところ、スペイン帝国は自国の産業振興には無関心でした。侵略と略奪によって金銀を得る方が、はるかに簡単だったからです。古くからの地主制度によって土地は痩せて農業は衰退し、産業と呼べるものは育ちませんでした。しかし、富を得るための戦争は、むしろ財政を悪化させてしまいます。これを解決するには、ネーデルラントの人々に重税を課すしかありませんでした。
さらにフェリペ2世によるカトリック化政策が決定打でした。
それまで大幅に認められていた自治権を奪われそうになり、1568年、ネーデルラントの人々は激しい反乱を起こしたのです。オランダ独立戦争、別名「八十年戦争」の始まりです。1581年にはホラント州などのプロテスタントの七州がまとまり、ネーデルラント連邦共和国の独立を宣言しました。オランダという国名は、このホラント州から来ています。
ちなみにこのとき、イングランドはオランダの独立を支持しました。これもフェリペ2世がアルマダ艦隊を送り込んだ理由の1つです。
この戦争の始まりは、スペイン帝国にとって主要な財源の喪失を意味していました。
当然、独立を許せるはずがありません。
1585年、スペイン軍によってアントワープが陥落します。これにより、一時は10万人いたアントワープの人口は4万人まで減少しました。プロテスタントを信仰する富裕な商人や職人たちは、アムステルダムへと逃げたのです。[20]その結果、アムステルダムはやがて国際貿易で栄える都市へと成長し、現代ではオランダの首都になっています。
1609年の休戦条約により、オランダは事実上の独立を勝ち取りました。
スペイン帝国は大切な財布を失ったのです。
ここで「おや?」と思った方も多いでしょう。
オランダ独立戦争は八十年戦争とも呼ばれますが、1568年の反乱に始まり、1609年に事実上の独立が達成されます。八十年もかかっていないのです。
実のところ、オランダの独立が国際的に承認されるのは1648年のウェストファリア条約締結を待たなければなりません。これは八十年戦争の講和条約であり、ここでようやく戦争は終結します。
ウェストファリア条約はただの講和条約ではなく、現在の私たちにも密接に関係しています。この条約締結によって、初めて現代のような国家観が認められたのです。国家にはそれぞれ国境があり、主権を持つ誰かによって支配されているという世界観です。
逆に言えば、このときまで現代のような「国家」はなかったとも言えます。
たとえば神聖ローマ帝国は皇帝が支配しているものの、各地の諸侯が強い力を持ち、実効支配していました。さらに神聖ローマ皇帝自体が、もとはといえばローマ教皇によって認められた地位です。加えて、ルネサンス期のイタリアのような自治都市がヨーロッパ中に点在していました。要するに誰が誰よりも〝偉い〟のか、言い換えれば誰が「主権」を持つのか、よく分からなかったのです。
この辺りは江戸時代までの日本によく似ています。徳川幕府が君臨しているものの、各藩の藩主にはかなりの自治権が認められていました。さらに将軍の地位そのものが、天皇によって与えられたものでした。やはり、誰が主権を持つのかよく分かりません。
オランダ独立戦争とウェストファリア条約の締結は、ヨーロッパの小さな紛争ではなく、世界史上の大きなターニングポイントだったのです。
アルマダの海戦に象徴される戦争への浪費、さらにはネーデルラントという収入源を失ったこと。これらの要因が重なって、「太陽の沈まない国」はやがて斜陽の時代を迎えます。
またスペイン帝国が輸入した大量の金銀は、ヨーロッパ経済にも無視できない傷跡を残しました。それが「価格革命」です。
次回の記事では、いよいよ「価格革命」に迫りましょう。
■参考文献■
[12]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』日経ビジネス人文庫(2015年)下p104
[13]中村健二『カクテル400』主婦の友社(2003年)p149
[14]ウィリアム・バーンスタイン(2015年)下p110-111
[15]小林幸雄『イングランド海軍の歴史』原書房(2007年)p117
[16]小林幸雄(2007年)p15
[17]以上のアルマダの海戦に関する記述は、小林幸雄(2007年)p118-122
[18]ウィリアム・バーンスタイン(2015年)下p104
[19]ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』文藝春秋(2015年)p113