はじめに

18世紀のイギリスは世界でいちばん賃金が高く、燃料費の安い地域でした。だからこそジェニー紡績機や蒸気機関などの技術革新に投資することで利益を得られ、産業革命が始まりました。

では、どうしてイギリスは高賃金かつ低燃料費の国になったのでしょうか?この疑問に答えるには、「なぜ産業革命はイギリスから始まったのか?」の過程を追いかける必要があります。

物語の始まりは14世紀にさかのぼります――。


すべてはペストから始まった

1347年9月、地中海に浮かぶシチリア島のメッシーナ港に数隻のガレー船が到着しました。おそらくはジェノバ商人の貿易船で、クリミア半島などの黒海周辺の港から貨物を運んで来たのです。きっと、商売は上々の成果を上げたことでしょう。

しかし、その船には多数のネズミが巣食っていました。彼らの毛皮には黒海からやってきたノミが群がっており、そのノミたちは体内に病原体を宿していました。

そう、ペスト菌です。黒死病の異名を持つこの伝染病は、その後の4~5年間でヨーロッパを蹂躙します。まずイタリア、フランス、スペインの地中海沿岸に広まり、さらに感染範囲を北へと広げました。

1348年9月にはブリテン島に上陸。翌年12月にはスコットランドまで到達し、勢力を東に伸ばしてスカンディナビア半島にも上陸します。1350年にはバルト海を渡り、現在のフィンランドやエストニア、ラトビア、リトアニアへ。1351年にはロシアまで侵攻しました[1]。

ペストによる死者数は、地域や研究によってまちまちです。が、極めて死亡率が高かったという点では一致しています。たとえばイタリアのシエナでは、1348年の死者数は平年の11倍になりました。

仮に平年の死亡率が約3.5%だったとすると、死亡率が5倍のならば人口の約6分の1を、10倍ならば約3分の1を喪失する計算になります[3]。(※死亡率3.5%は、1000人あたり毎年35人が死ぬ計算になります。医療が未熟で、とくに乳幼児死亡率が高い時代だったことを考えると妥当な仮定です。なお、参考までに2017年の日本の死亡率は1000人あたり10.8人でした[2])

14世紀半ばからおよそ1世紀に渡り、ヨーロッパでは平均11~13年おきにペストが大流行しました。繰り返されるペストの猛威によって人口は大幅に減少しました。14世紀初頭のヨーロッパの総人口は約8000万人だったと見積もられていますが[4]、その何分の一かが消失したのは間違いありません。

15世紀前半にはヨーロッパの人口は最低点に達します。イタリアやイギリス、フランス、スペイン、ドイツでは、ペスト流行前と比べて30%から40%の人口減少があったことが確かめられています[5]。やや大袈裟に、イングランドでは人口の約半分が死に追いやられたという論者さえいます[6]。

このようなペストの惨禍は、しかしイギリスに2つの恩恵をもたらしました。1つは政治的な恩恵、もう1つは経済的な恩恵です。

独立自営農民「ヨーマン」の成立

まずは政治的な恩恵から見ていきましょう。

14世紀前半までのヨーロッパは、いわゆる封建制度に支配されていました。土地を所有する国王は、それを軍役と引き替えに封建君主に下賜(かし)し、さらに封建君主はその土地を農民に分け与えて、代わりに無給労働や年貢、税金を納めさせる――という制度です。イギリスも例外ではありませんでした。

封建制度の下では、農民は君主の許しがなければ土地を離れることができません。封建君主は単なる地主ではなく、農民から見れば警察と裁判官を兼ねる存在です。要するに当時の農民は、ほとんど奴隷のような身分だったのです。この時代の農民を「農奴」とも呼びます。ヨーロッパ全土が封建制度を脱するのは、ずっと先の話です。

しかしペストの大流行は、この制度にヒビを入れました。大幅な人口減少により、各地の荘園は深刻な労働力不足に見舞われたのです。これに乗じて、農民たちは自らの待遇改善を訴えました。オックスフォード郊外のエインシャムには、こんな契約書が残されています。

「1349年の腺ペストによる大量死の際、荘園にはかろうじて2人の小作人が残った。彼らは、その荘園の当時の僧院長にして封建君主だったアプトンのブラザー・ニコラスが、自分たちと新たな協定を結ばなければ、荘園を去るつもりだと表明した[7]」

ここでいう「新たな協定」とは、無給労働と地代の削減を訴えるものでした。ブラザー・ニコラスは小作人たちの要求を呑まざるをえませんでした。エインシャムの一件は例外的な出来事ではありません。ヨーロッパ中で同じような事態が生じたのです。

もちろん権力者側も黙ってはいませんでした。

たとえばイングランド政府は、1351年に労働者規制法を可決します。これは農民たちの賃金と待遇をペスト流行以前の水準に固定しようとするものです。ところが政府の目論見は失敗しました。法律の遵守を強制した結果、1381年の農民一揆を招き、ワット・タイラー率いる反乱兵にロンドンの大半を占拠されてしまったのです[8]。タイラーは処刑されましたが、労働者規制法は有名無実のものになりました。

こうして西ヨーロッパの農民たちは奴隷的な身分から解放されていきます。(※一方、東ヨーロッパやロシアでは権力者側の目論見が成功してしまい、農民たちの身分はさらに制限の多いものになりました。ロシアの農奴制は19世紀半ばまで続きます)

とくにイングランドは他国よりも貨幣経済が浸透していた点で特徴的でした。14世紀までにヨーロッパでは貨幣が広く流通するようになり、封建君主のなかには無給労働や農作物ではなく、貨幣で地代を徴収する者が現れたのです。イングランドはこのような「貨幣地代」がとくに普及しており、農民は市場で作物を売って貨幣を獲得し、地代を払った残りを自らの懐に貯えることができたのです。

お金のない世界では、住んでいる土地から逃げるのは簡単ではありません。新たな土地の人々に認められて、その土地に適した作物や農法を覚えて、かつての主人に見つからないよう周囲の人々に秘密を守ってもらわなければなりません。

しかし貨幣経済が浸透している世界では(言い方は悪いですが)お金さえあれば生きていけます。「待遇を改善しなければ荘園から逃げるぞ」という農民たちの脅しに、イングランドの封建君主たちは真剣に向き合わなければなりませんでした。「貨幣とは鋳造された自由である」というドストエフスキーの言葉は正鵠(せいこく)を射(い)ています。

イングランドでは農民の地位向上が続き、ついに自分で自分の土地を所有する農民が現れました。彼らを「独立自営農民」、英語で「ヨーマン」と呼びます。

ヨーマンの成立という政治構造の変化は、産業革命への遠い伏線になります。以上がペストのもたらした政治的恩恵です。

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