はじめに
太平洋戦争が始まる頃には、日本は巨大な戦艦を建造し、高性能の戦闘機を製造できる工業国になっていました。1870年には737ドルだった1人あたりGDPは、1940年には2,874ドルに増加しました。江戸時代の停滞状態から比べれば大躍進です。
とはいえ、明治維新から太平洋戦争直前までの経済成長は年率にすれば約2.0%にすぎません。もしも1950年以降も同じ成長率だったとしたら、アメリカの豊かさにキャッチアップするのに327年もかかるはずでした[10]。
ところが、日本と欧米先進国との生活水準の格差は1990年までには解消されます。いったいどんな手品を使えば、このような爆発的経済成長が可能なのでしょうか?
戦後日本の「ビッグプッシュ型」経済
20世紀、アメリカを始めとした先進国の1人あたりGDPは年率約2%で成長していました。貧しい国が2世代(60年)でこれに追いつくには、1人あたりGDPが年4.3%で成長しなければなりません。人口の増加率にもよりますが、GDP全体では年6%以上の成長が必要です[11]。
これは、並大抵のことではありません。
なぜなら、先進国経済のすべての要素を同時に準備しなければいけないから――需要が生まれる前に投資を始めなければいけないからです。
たとえば製鉄所は、鉄の需要が伸びる前に建設されなければなりません。自動車工場は、鉄の生産が始まる前に建設されなければなりません。しかも、消費者の間で自動車の需要が生まれる以前に、これらの生産設備が完成していなければならないのです。
当然ながら、市場原理に任せているだけではこのような経済成長はできません。政府主導の綿密な計画が必要です。このような政府策定の計画に基づく経済成長を「ビッグプッシュ型」経済と呼び、ソビエト連邦で1928年から始まった「第一次五ヶ年計画」はその典型です[12]。
そして日本の戦後復興と高度成長も「ビッグプッシュ型」でした。終戦直後の日本が直面したのは、極端な生産の縮小でした。要するに物不足に陥ったのです。
たとえば戦時中には年間5000万トンに達した石炭生産は、強制労働させられていた朝鮮人や中国人が帰国してしまったために、鉄道用の燃料が確保できないほど落ち込みました[13]。1943年には年間770万トンだった鉄鋼生産は、1945年には50万トンまで縮小しました。
石炭や鉄鋼は、あらゆる産業の基盤となる素材です。これらの生産量が激減したことで、機械装置を動かすことも、製品を作ることもできなくなってしまったのです。
日本政府は「傾斜生産方式」と名付けた経済政策で、この難局に対応しました。復興のためのお金を石炭と鉄鋼に集中的に投下したのです。たとえば炭鉱労働者への食糧配給は、常人の2倍になりました。これらの産業が復活すれば、他の産業にも波及していくと考えたのです。
反面、このときに設立された「復興金融公庫」が大規模にお金を貸し付けたせいで、国内を出回るお金の量が増え、極端なインフレーションが発生しました。日本政府は価格統制でインフレと戦いつつ、各産業が回復するのを待たなければなりませんでした。
1950年、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の朝鮮出動の基地となります。アメリカ軍やその兵士がさまざまな物資を買い付けたため、日本は好況に沸きました。いわゆる戦時特需です。日本の経済はここで大きく成長し、1953年までに戦前の水準を突破しました[14]。
しかし、順風満帆とはいきませんでした。
1957年には、日本の国際収支は赤字に転落します。輸出よりも輸入が上回ってしまったのです。当時の日本経済は、原材料を輸入して、加工品を輸出するという構造でした。輸入のためには相手国の通貨が必要です。そして外貨を獲得するには輸出をするしかありません。要するに経済成長が輸出によって制約されていたのです。1950年代半ばには、日本の急成長は長くは続かないという悲観論が支配的でした[15]。
これに異を唱えたのが、経済学者・下村治(しもむら・おさむ)です。
彼は、輸入超過は一時的なものだと看破しました。外国から購入した原材料が工場の倉庫に在庫として眠っているだけであり、じきに輸出が伸びて国際収支は改善すると考えたのです。在庫調査の結果、下村の説が正しいと証明されました。
下村治は1960年に発足した池田勇人(いけだ・はやと)内閣のブレーンとなります。そして、有名な「所得倍増計画」が策定されます。