はじめに
所得倍増計画と高度成長
所得倍増計画は、10年間でGNPを2倍にするという野心的な計画でした。GNPとは「国民総生産」のことで、GDPが広く使われる以前に一般的だった指標です。計算方法には違いがあるものの、GDPと同様に「ある国の経済規模を計る指標」だと考えてかまいません。
この計画が緻密なものだったかというと、そこには疑問符が付きます。なぜなら日本経済は、計画をはるかに上回る速さで成長したからです。たとえば設備投資は、1970年の目標とされていた水準を1961年には飛び越えてしまいました[16]。
さらに1960年代には「団塊の世代」が中学や高校を卒業し、労働市場に流れ込みました。人口に占める労働可能な人が多い「人口ボーナス期」に入ったのです。働き盛りの人は生産活動を行うだけでなく、消費活動も旺盛です。そのため人口ボーナス期に突入した国は力強い経済成長を経験します。
じつのところ、団塊の世代によって労働者の数が増えすぎ、失業が問題になるという予想もありました[17]。しかし事実はまったく逆でした。爆発的な経済成長により、この時代は人手不足が深刻化したのです。
その結果、1960年までは4,000円前後だった中卒者の初任給は、わずか2年ほどで6,000円に跳ね上がりました。また、「臨時工」という名目で本工の半分ほどの賃金で働かされていた労働者は姿を消しました[18]。労働組合も強気に賃金闘争を行い、1961年以降は毎年2ケタのベースアップ率が達成されます[19]。
かつて、日本経済には「二重構造」が存在していました。大企業に比べて、中小零細企業の賃金水準が極めて低かったのです。大企業はそうした中小企業を下請けにすることで、低廉(ていれん)な労働力を利用できました。現代の日本企業が、低賃金の国に海外工場を作るようなものです。それを1つの国の中で行っていたのです。
ところが1960年代の人手不足は、この構造を破壊します。
労働組合のある大企業を中心に賃金水準が引き上げられた結果、中小企業も高賃金を約束しなければ労働者を確保できなくなったのです。高い給料を支払いながら経営を続けるためには、生産性を高める――つまり労働を節約して資本(=機械)の利用を増やす――しかありませんでした。そして、それができない企業は淘汰されていったのです。
こうして大企業と中小企業との賃金格差は是正されていき、1969年には国民の約9割が自らを中流階層だと認識するようになりました[20]。いわゆる「一億総中流」の時代が到来したのです。
その後も日本は着実な成長を続け、1990年までには欧米先進国と遜色ない生活水準を手に入れました。