はじめに

レオナルド・ダ・ヴィンチといえば、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』で知られる芸術家です。彼は偉大な発明家であり、科学者であり、ルネサンスの時代を代表する万能人でした。そんな彼と複式簿記との意外な関係を、みなさんはご存じでしょうか?

初めまして、Rootportと申します。『女騎士、経理になる。』というマンガの原作を書いている者です。

このコラムでは歴史の物語を通じて、縁遠くなりがちな複式簿記を身近に感じてもらいたいなあ……と思っています。

「複式簿記って、いったい何だ?」という読者もいらっしゃるでしょう。さっそく私のマンガを読んでいただきたいところですが、ここでは「複雑な商売をするときに必須の帳簿の付け方」と理解してください。


世界最古の複式簿記の教科書『スムマ』

たとえば日本では、江戸時代にはかなり高度な商取引が発達していました。1620年代には早くも米のオプション取引の記録が残されています[1]。複式簿記に近い考え方も、すでに生まれていたようです。ところが当時の日本の帳簿を見ると、重要な項目には符帳を用いる等、極度の秘密主義があらわれています[2]。どうやら江戸時代の日本では、帳簿の付け方は商家ごとの「秘伝」の技術になっていたようです。

明治維新によって鎖国が解かれると、西洋の複式簿記が一気に日本に広まりました。あの福沢諭吉も『帳合之法(ちょうあいのほう)』という書籍で複式簿記を紹介しています。明治時代の小学校の教科書には複式簿記が載っていました。今でこそ義務教育で簿記を教えなくなってしまいましたが、かつての日本人は欧米の進んだ技術の一つとして、複式簿記を貪欲に学んでいたのでしょう。

では、なぜ日本では「秘伝」だった記帳技術が、欧米では広く浸透していたのでしょうか?

答えは単純で、かなり早い時代から簿記の教科書が作られて、知識人の基礎教養として学ばれていたからです。

世界最古の複式簿記の教科書は、1494年にイタリアのヴィネチアで出版されました。コロンブスが新大陸に到達した2年後ですね。タイトルは『算術、幾何、比および比例全書』、長いので『スムマ』という略称で知られています。この教科書を著したルカ・パチョーリは、近代会計の父と呼ばれています。

ここで『スムマ』が出版された時代背景を確認しておきましょう。

1450年代にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷機を発明し、書物の価格が急激に下がりました。それまでの本は1冊ずつ人の手で書き写すため、お金持ちだけが入手できる超高級品でした。ところが機械で大量に印刷できるようになり、たくさんの人が本を手に入れて、新しい知識に触れられるようになったのです。1500年頃になると、本1冊の値段は教師や熟練の職人の給与の1週間分程度になっていました。現在でいうデスクトップパソコン1台分くらいの価格水準だったのでしょう。

また1453年にはコンスタンティノープル(※現トルコ・イスタンブール)が、オスマン帝国によって陥落しました。このとき、コンスタンティノープルで古代ギリシャやローマの知識を守っていた知識人が、ヨーロッパに難民として流入しました。ヨーロッパの人々は、自分たちの祖先が持っていた高度な知識や哲学に触れ、再度それを取り戻そうとしました。

こうしてヨーロッパの暗黒時代は終わり、ルネサンスの時代が始まったのです。

また、当時の人々の算術能力についても説明しておきましょう。ヨーロッパでは古くからローマ数字が使われていました。たとえば「893」はローマ数字では「DCCCXCIII」となります。複雑な商取引を記帳するのに、ローマ数字は大変不便でした。

ルカ・パチョーリが『スムマ』を著した15世紀末は、ちょうどイタリアでインド=アラビア数字が広まっていた時期に重なります。当時の一般人は足し算、引き算をするだけでも一苦労で、掛け算はかなり難しいこととされており、割り算にいたっては専門家が行うものだと考えられていました。

そんな時代に書かれた『スムマ』は、簿記だけでなく、数字を使った算術や幾何学全般を解説する本でした。縦30cm、横25cmのかなり大判な本で、615ページにはびっしりと文字が印刷されていました。現代の一般的な書籍に置き換えれば1500ページにはなるであろう大著です。

このうち、複式簿記を解説しているのは「計算および記録に関する諸説」というわずか27ページの章です。文字数にすれば24,000字で、「ヴェネチア式簿記」として複式簿記を紹介しています。ルカ・パチョーリは若い頃にヴェネチアの商家で働いていたことがあり、そのときに簿記の技術も学んだのです。

この24,000字が世界を変えたと考えると、感慨深いものがあります。

もしも『スムマ』にヴィネチア式簿記が掲載されていなければ、西洋に複式簿記が広まることもなく、資本主義や株式会社も生まれず、現代の世界はまったく別の姿になっていたかもしれません。歴史に“もしも”はありませんが、そうやって妄想を広げるのは刺激的です。

複式簿記は、誰か一人の天才が生み出したものではありません。長い時間をかけて、中東や地中海の商人たちが少しずつ発展させてきました。ルカ・パチョーリはその知識を『スムマ』の一章にまとめたのです。

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