はじめに
インカ帝国の簿記「キープ」
時代はずっと後になりますが、15~16世紀の南米ではインカ帝国が栄えました。彼らは文字を持たない文明でした(※なお、インカ帝国はマヤ文明やアステカと勘違いされることが多いようですが、インカ帝国は南米であるのに対し、マヤとアステカは中米です。また、マヤ文明は8世紀ごろに最盛期を迎え、西洋人が新大陸に到達した15世紀にはすでに衰滅していました。閑話休題)。
この「文字を持たなかったこと」が、インカ帝国がスペイン人にあっさりと征服されてしまった要因の一つだと言われています[6]。
1532年11月16日、スペインの将軍フランシス・ピサロは、インカ帝国の皇帝アタワルパを捕虜にしました。このとき、アタワルパは8万人の兵士に護られていたのに対して、ピサロが率いていたのはわずか168名のならず者部隊でした。その後の8ヶ月間、ピサロは皇帝を人質に歴史上最高額の身代金をせしめます。彼は約35平米の部屋いっぱいの黄金をインディオたちに支払わせた後、約束を反故にしてアタワルパを処刑しました[7]。
文字のないインカ帝国では、兵法や政治の教訓を後世に詳しく伝えることができませんでした。一方、スペイン人たちは書物によって歴史や軍記を学んでおり、コロンブスの航海記のような先人の報告書を読むこともできました。ピサロ自身は文字が読めなかったとはいえ[8]、彼らは敵についてよく知っていたのです。文字を持たないという点で、インカ帝国の人々は圧倒的に不利でした。だからこそ、ピサロに簡単に征服されてしまったのでしょう。
ところが、文字のないインカ帝国にも「簿記」は存在しました。
キープ(Quipu)という、紐の結び目で数量を表現する記録方法があったのです。「インカ結縄(けつじょう)文字」とも呼ばれます。インカ帝国の官僚たちは、紐の結び目によってさまざまな記録をつけていました。人口調査や徴税、財産の所有権、さらに(書き文字ほどではありませんが)簡単な言語情報を記録できました[9]。
キープは非常に正確で効率的だったので、征服直後はスペイン人自身もこれを使用しました。しかし、スペイン人はキープの使い方をよく知らなかったため、記録や解読に地元の専門家を頼らざるをえませんでした。自分たちの立場が弱くなると気づいたスペイン人は、やがてキープを廃止し、ラテン語の書記体系と数字による記録に切り替えました。
現存するキープの数は少なく、わずかに残ったものも解読されていません。
キープを読む技術が失われてしまったからです。
なぜ文字よりも簿記が先に生まれたのか
古代メソポタミアとインカ帝国のどちらでも、文字よりも先に広義の「簿記」が生まれていました。もしかしたら、これは中央集権的な国家が成立した地域に普遍的な現象なのかもしれません。
農耕が発達して余剰食糧が生産できるようになると、王や官僚──生産活動に従事しない特権階級──を養うことが可能になります。彼らが食べていくには、徴税・貢租が欠かせません。
また、王とその取り巻きが暮らす地域には人口が集中し、やがて都市になります。農民たちは定期的に都市に集まり、祭市で収穫物を売買するようになります。彼らの中には、いちいち農地と都市とを往復しなくても、都市の倉庫で商品を保管して売買すれば利益を上げられると気づく者が現れます。商人の誕生です[10]。
官僚たちの徴税にも、商人たちの取引にも、記録をつけることは重要です。都市が生まれるほどまで発展した人間社会では、ごく自然に簿記が生まれるのではないでしょうか。
日本は中国から漢字を移植しました。しかし、それ以前から中央集権的な国家は生まれていました。もしかしたら文字を使い始める以前の日本にも、キープのような記録方法はあったのかもしれませんね。
■参考文献■
[1]フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』東洋経済(2014年)p64
[2]板谷敏彦『金融の世界史 バブルと戦争と株式市場』新潮選書(2013年)p22
[3]フェリックス・マーティン(2014年)p65
[4]板谷敏彦(2013年)p23
[5]ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』ハヤカワ・ノンフィクション文庫(2015年)p54
[6]ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』草思社文庫(2012年)上p143
[7]ジャレド・ダイアモンド(2012年)上p122-123
[8]ジャレド・ダイアモンド(2012年)上p146
[9]ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』河出書房新社(2016年)上p161-162
[10]ジョン・リチャード・ヒックス『経済史の理論』講談社学術文庫(1995年)p54