はじめに
虐待の「悪者探し」は解決を導くのか?
現代の日本における貧困の問題に果敢に取り組んでいるマンガに、生活保護のケースワーカーと生活保護受給者たちを描いた『健康で文化的な最低限度の生活』(柏木ハルコ・小学館)があります。
昨年(2018年)の夏に放送された吉岡里帆主演のドラマ版は、視聴者の見やすさを考慮したのか、妙に軽いノリのアレンジが加えられていて、原作本来のリアリティが損なわれていましたが、原作の方は徹底した取材でさまざまな社会問題に切り込んでいます。
6月に発売された第8巻では、7巻から続いていた「子供の貧困」編が完結しました。このエピソードでは、本作の主人公だった義経えみるではなく、その同僚で生真面目な性格の栗橋千奈(ドラマでは元AKB48の川栄李奈が演じていました)が、2人の子供を持ち、さらに妊娠中のシングルマザー・佐野美琴を担当するケースが描かれました。
マンガではこの母親が風俗で働き、部屋は乱雑さと不潔さを極め、子供の基本的な生活を維持させる心の余裕もないようすが描かれています。
マンガ『健康で文化的な最低限度の生活』では、ケースワーカーの栗橋がシングルマザーの美琴の支援に乗り出しますが、四角四面な行政用語を次々と繰り出す栗橋に、当初美琴は拒絶的な態度を示します。けれど、当初は衝突しながらも美琴の生活を立て直そうと奔走する栗橋に、美琴はやがて心を開き、生活の展望も見え始めます。
これは、三代続く生活保護家庭のもとで生きる美琴がどうやって貧困の連鎖から抜け出そうとするかというエピソードであると同時に、福祉職員の栗橋が自身の中にも存在する心の壁を乗り越えていく物語でもあります。
エピソードの中で、シングルマザーの美琴が、退去することになった部屋を前にして、「ウチはこの部屋で死ぬと思ってた。虐待のニュースとかみるたびに、次はウチの番かもと思って、この部屋に戻るのがこわくて、友達の家に泊めてもらったりしていた」と話すシーンがあります。
その様子は、最近発売された山田詠美の小説『つみびと』(中央公論新社)のモデルになった、2010年の大阪二児置き去り死事件などを彷彿とさせます。マンガ内で登場する栗橋の自室の本棚には、同事件のルポルタージュ『ルポ虐待』(杉山春・ちくま新書)があるのが描かれています。
この事件では、母親や行政、母親の養育環境、別れた夫の家族など、誰が悪かったのかという「悪者探し」が盛んにマスコミで行なわれましたが、マンガのエピソードでも、栗橋は、支援がようやく軌道に乗り始めたときに、自分もこれまで「悪者探し」をしていたのではないかと反省します。
一連のエピソードは、どうすれば大阪二児置き去り事件のような事件を防げたのかという作者の問いかけであると同時に、「悪者探し」だけでは何も解決しないことを示唆しています。行政のケースワーなど、さまざまな職種が連携して生活困難者を支える制度の重要性を、この物語は表現しています。
福祉職の燃えつき=バーンアウトも問題
もっとも、筆者は本作がドラマ化されたときに、実際に生活保護を受けている人からドラマの印象を聞いたのですが、現実のケースワーカーはもっと淡々と仕事をしており、これほどひとつひとつのケースに入れ込むのは見たことがないと言います。
ひとりのケースワーカーが、80世帯とか、100世帯以上を担当していることも珍しくないと言われますから、これほど一件一件に熱くなっていては、とても身が持たないでしょう。
福祉の世界では、理想に燃える職員ほどバーンアウト、燃えつきる場合が多いことがよく知られていますが、本作での義経えみるにしても、担当世帯の高校生のために、学習指導のボランティアまで買ってでて、始業前に数学の予習をしようとまで考えるのは、いくらなんでも背負い込み過ぎです。このように、ひとりひとりの支援職が過重な負担を負いすぎないためにも、社会全体の重層的な支援体制が必要とされているのです。
さて、現在は、小学生にとって楽しいはずの夏休みの真っ最中ですが、シングルマザーの貧困家庭においては、学校という子供の行き場も給食もなくなる夏休みには、ひときわ困難が顕在化することがかねてより指摘されています。苦しい状況におかれた人たちを、社会全体がどう支えていけるのか、私たちひとりひとりの意識が問われているのです。