はじめに

前回の記事では、広義の「簿記」の誕生が文明の起源にまでさかのぼることを書きました。では、狭義の「簿記」、すなわち複式簿記は、いつ生まれたのでしょうか?

「文字」よりも先に「簿記」が生まれた!?

歴史をふり返る前に、そもそも複式簿記とは何かを確認しておきましょう。

お小遣い帳や家計簿の場合、「現金」の増減という一つの面しか見ていません。しかし実際には、あらゆる経済的取引には二つの面があります。たとえば「現金」が増えるのは、収入があったときだけではありません。誰かからお金を借りたときには、「負債」と「現金」が同時に増えます。

また、同じ「現金」の増加でも、仕事で稼ぐ場合と自家用車を売る場合とでは、その性質が違います。前者では、仕事による「収入」と、口座のなかの「現金」とが同時に増えます。一方、後者では自家用車という「資産」が減って、代わりに「現金」が増えます。このように「現金」が増減するときは、他の「何か」が同時に増減しているのです。このことを指して、私は「あらゆる経済的取引には二つの面がある」と書きました。

少し、ややこしいでしょうか?


複式簿記の発展

このような複式簿記の基本ルールは、13世紀末までに北イタリアで発展しました。

複式簿記で書かれた帳簿のうち、現存する最古のものはリニエリ・フィニー兄弟商会(1296年)か、ファルロフィ商会(1299年~1300年)のものだと言われています[1]。前者はヨーロッパ全域に商圏を広げており、後者はフィレンツェ‐プロヴァンス間の取引で活躍しました。とくに後者の帳簿は、ごく基本的な部分では現代と同等のルールで記されています。複式簿記の核になる考え方は、この時代までに完成していたようです。

また、この時代の帳簿ではジェノヴァ市庁舎(14世紀)のものも有名です。現代の市役所とは違い、当時の市庁は営利目的の交易を行っていました。現代の複式簿記では、取引の二つの面を1行にまとめて書きます(※この1行を「仕訳(しわけ)」と呼びます)。しかし当時はまだ仕訳の概念はなく、それぞれの取引を文章で記載していました。文章で書かれた二つのパラグラフを対応させることで、取引の二面性を表現していたのです。

北イタリアは、アジアと西ヨーロッパとをつなぐ交易の要衝でした。当時の世界では、ヨーロッパは貧しい辺境の地でしかありませんでした。技術力でも経済力でも、中国や中東のほうが圧倒的に勝っていました。北イタリアの人々は、東方からもたらされる進んだ知識を貪欲に吸収し、やがて複式簿記を完成させました。

複式簿記は、誰か一人の天才が作り上げたものではありません。商人たちが日々の取引を記録する必要に駆られて、自然発生的に発展していったのです。

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