はじめに
証券化された米手形
江戸時代、大阪には各藩の「蔵屋敷」がありました。藩内で取れた米を売却する場所です。米の代金の3分の1を支払った客に対して、蔵屋敷は「米手形」を発行しました。客は30日以内に米手形と残金を持ってくれば、米を入手することができました。
これだけなら、米手形は手付金の領収書にすぎません。しかし商人たちは、米手形そのものを売買するようになりました。つまり、米が証券化されたのです。さらに米手形なら、現金の3倍の量の米を売買することが可能でした。
1660年と1663年には、大阪奉行所は「期限30日間を厳守すること、米手形の転売の禁止、市を為しての取引の禁止」のお触れを出しています。この時代には、すでに米手形の大規模な市場が成立していたことがうかがえます。
さらに「つめかえし」と呼ばれる、現物の米の受け渡しをともなわない取引も登場しました。米価の上下だけに賭ける、純然たる先物取引です。淀屋橋で有名な「淀屋」のように、米手形の売買で財を成す商人も現れました。
淀屋の自宅前で行われていた米市は、近隣への騒音問題から堂島へと移されました。
名高い「堂島米市場」の誕生です。
世界初の先物取引市場!?
しかし淀屋にとって、九州・四国の大名にカネを貸しすぎてしまったことが運の尽きでした。1705年に淀屋はぜいたくと不実商いの元凶として取り締まりを受け、大名たちの借金は帳消しとなりました。当時の奉行所は、米手形の取引こそが庶民を苦しめる米価高騰の原因だと考えていたようです。
ところが1720年代に入ると、幕府は態度を変えます。水田開墾が進んだことと豊作とが重なり、米価が下落。大名たちが現金収入の不足に悩むようになったからです。米手形の取引を規制緩和することで、米価の上昇を期待したのです。そして1730年には、現物の受け渡しをともなわない先物取引が公認され、制度化されました。
堂島米相場会所は、世界初の先物取引市場と言っていいでしょう。もちろんオプション取引や先物取引は、それ以前にも世界各地で見られました。しかし、きちんとした制度を持つ大規模な先物取引市場は、過去に例のないものでした。
江戸後期から明治にかけて、日本の文化人は西洋の書物をひもといてさまざまな訳語を作りました。医学、解剖学の分野では杉田玄白が素晴らしい翻訳をしています。政治制度や思想では、福沢諭吉や中村正直のような知識人が見事な和製漢語を作っています。ところが金融にまつわる用語には、そのような翻訳は不要でした。当時の日本には、対応する相場用語が出揃っていたからです。
複式簿記を持たない江戸時代の日本人は、一体どのようにして高度な金融市場を発展させたのでしょうか。次回の連載では、江戸時代の帳簿技術について書きたいと思います。
■参考文献■
【主要参考文献】
板垣敏彦『金融の世界史』新潮選書(2013年)p126~129]]