はじめに
複式簿記の強み
簿記を勉強した方ならご存じのとおり、PLの当期純利益と、BSの純資産の増加額とは一致します。収益・費用のPL科目の計算結果と、資産・負債のBS科目の計算結果とが一致しているかどうかを見れば、計算に間違いがないことを確認できます。このような検算機能が複式簿記の強みの一つです。
17世紀後半になると、日本の商人のなかにも似たような計算を行う者が現れました。
現存する最古のものでは、1671年に作成された大阪の鴻池両替店の「算用帳」が知られています。
伊勢冨山家の帳簿と同様、鴻池両替店の帳簿も財産計算に重きが置かれています。一方で、少し変わった形式ではあるものの、収益と費用の計算もなされており、期末の純資産の計算結果に間違いがないことが確認されていました。財産と損益が二重に計算されているという点で、西洋の複式簿記っぽい特徴を持った帳簿です。
そして冒頭の三井越後屋も、財産と損益の二重計算を行っていました。
三井家には「永代目録帳」という帳簿が残されています。三井家は江戸に店舗を構えるだけでなく、京都にも「京都御用所」という仕入れの拠点を作り、幕府御用達の呉服を買い付けていました。永代目録帳は、この京都御用所で作成されました。1693年上期~1844年下期の151年におよぶ、全4冊の記録が残されています。この帳簿によれば、三井家は1700年下期以降から財産と損益の二重計算を開始したようです。
江戸時代の帳簿と西洋の帳簿の違い
今回紹介した江戸時代の帳簿には、西洋の帳簿には見られないいくつかの特徴があります。
まず、和紙に筆で縦書きの記録をすること。これは筆記用具の違いを反映したものですね。
次に、記帳の際に「符帳(ふちょう)」と呼ばれる暗号を使用する場合があること。これは西洋との商習慣の違いを反映しています。今までの連載で書いてきたように、西洋では公証人を立てて、オープンに記録を残すことが重視されていました。さらに『スムマ』のような簿記の教科書が普及していました。一方、日本では商売の秘訣を外に漏らさないことが重視され、記帳はいわば一家伝来の技術として発達しました。
第三の特徴は、帳簿には記録が残されるだけで、計算は算盤を使って簿外で行われていること。江戸時代には多くの人が寺子屋で「読み・書き・算盤」を学んでいました。当時の人々は、かなり優れた算盤技能を持っていたと考えられます。長崎平戸島のオランダ商館長が1648年に著した書籍には、「日本人はイタリア式簿記を有せざるも計算を誤ることなし」と記されているそうです。この高い算盤技能があったからこそ、複式簿記がなくても当時の日本人は複雑な商取引を発達させられたのかもしれません。
とはいえ、今回紹介した伊勢冨山家や鴻池家、三井家は、いずれも歴史に名を残すような大商人です。江戸時代のすべての商人が、彼らのように緻密な帳簿をつけていたと考えるのは誤りでしょう。
では、より小さな商人や一般庶民は、どのような商売を行っていたのでしょうか。次回の記事では、「江戸のごく普通の商人」について書きたいと思います。
■参考文献■
【主要参考文献】
中野常男、清水泰洋『近代会計史入門』同文館出版(2014年)p132~137
[1]http://www.mitsuipr.com/special/100ka/04/index.html