はじめに
1673年に江戸本町一丁目で開店した呉服店・三井越後屋は、斬新な販売手法で急成長しました。1683年には店を駿河町に移し、江戸を代表する大店へと発展していきます。
その新しい販売手法とは「現金掛け値なし」でしたーー。
江戸時代の経済取引
当時の呉服商業界では、見本を持って得意先を回り注文を取る「見世物商い」か、品物を得意先で直接売る「屋敷売り」が一般的でした。支払いは盆と暮れの年2回。いわゆる「掛け取引」です。ところが三井越後屋は、商品に値札を付けて店頭で販売するという「正札販売(しょうふだはんばい)」を行ったのです。これが庶民の人気を集め、三井家は大商人へとのし上がりました[1]。そして三井越後屋は、三井財閥やデパートの「三越」の前身となったのです。
ここで疑問が浮かびます。
江戸時代には掛け取引が一般的でした。であれば、商人たちは売掛金と買掛金を正確に把握していたはずです。また前回書いた通り、江戸時代の日本にはすでに高度な先物市場が成立していました。西洋の複式簿記を持たない当時の人々は、一体どのようにして複雑な経済取引を記録していたのでしょうか。
じつを言えば、江戸時代にも西洋の簿記解説書は日本に持ち込まれていました。たとえばイギリス東インド会社の平戸商館の商館長であったリチャード・コックスの日記によれば、彼は1616年に1冊の簿記書を持って来日したそうです。さらに、当時輸入された複式簿記の解説書のいくつかは現存しています。
日本の商人たちがこれらの書物を目にした可能性はあります。ところが、西洋式の簿記の特徴――貸借を並べた仕訳、左右対称の勘定、貸借平均の原理――を完全に取り入れた帳簿は発見されていません。さらに、複式簿記の伝播を示すような文献も見つかっていません。
記録上は、室町時代末期の「土倉帳(とくらちょう)」が日本最古の商業帳簿だとされています。しかしこれは現存せず、その内容は分かりません。現存するものでは、江戸時代に作成された伊勢冨山家の帳簿が最古のものです。
現存する日本最古の帳簿「足利帳」
伊勢冨山家は、その名の通り伊勢に源流を持つ呉服商の一族です。徳川家康が天下を取ると、冨山家も拠点を江戸に移しました。1620年には金融業も行うようになり、やがて大阪や京都へと店舗網を広げていきました。
彼らが1615~1640年に記帳した「足利帳(たしりちょう)」が、日本で現存する最も古い商業記録です。さらに1638年には、彼らは「算用帳(さんようちょう)」という財産目録を作成しています。これは資産・負債の詳細な目録です。資産総額から負債総額を差し引くことで、正味身代(※純資産)の計算も行われました。
これらの帳簿はどちらも財産計算のみで、損益計算は行われていません。いわゆる「単式簿記」の形で作成されたと考えられています。ただし、伊勢冨山家は金融業や幅広い店舗網を持つ大店です。形式こそ複式簿記ではありませんが、毎年の利益計算は行っていたはずです。発見された帳簿のほかにも、体系的な記録簿や決算作業の手続きが存在したと推測されています。
こうした帳簿から分かることは、江戸時代の人々も決して闇雲に商売をしていたわけではないということです。現代の複式簿記に比べれば精度は落ちますが、独自の記録方法を考え出して、自分の商売の実態を掴もうとしていたことがうかがえます。