はじめに
ミャンマーがアジア最後の手つかずの市場として注目を浴び、各国政府・企業によるミャンマー詣でが相次いだのは、2012年だったでしょうか。当時は建設ラッシュが沸き起こり、直接投資は大幅に増加、ミャンマー経済は2013~15年に8%近い成長率で推移しました。
2011年に市場開放したラスト・フロンティア
ミャンマーの歴史をひも解けば、1988年に軍クーデター、1997年に米国による経済制裁開始。約20年にわたって軍事政権の下で国際社会からの経済制裁が続き、同国の開発は停滞せざるを得ませんでした。
しかし、2010年の20年ぶりとなる総選挙を経て2011年3月に新政権が発足。民政移管が完了すると、規制緩和などを通じた開放政策が急激に進み、海外からの直接投資が大幅に増加し始めました。
筆者が初めてミャンマーを訪れたのは、民政移管が完了したばかりの2011年9月。当時の一人当たりGDPはわずか1,080ドルに過ぎず、中核都市のヤンゴンでさえも、多くの人がいわゆる「青空市」と言われる伝統的な市場で買い物をしていました。
それにもかかわらず、人々は日常的に寺院やパゴダ(仏塔)に「金箔」のお布施を行っていたため、その厚い信仰心に驚いた記憶があります。
ミャンマーは敬虔な仏教徒の国であり、その厳しい生活の中で、黄金に輝く寺院が人々の心の拠り所になったことは間違いないでしょう。多くの人がわずかな所得の1割にも上る金額をお布施にあてていると現地の人から聞き、「物欲よりも、祈りの国」との印象が残りました。
麻袋いっぱいの札束を担ぐ預金者
ビジネス面では、当時は携帯電話が通じない、クレジットカードが使えない、ドル送金ができないなど、できないことだらけでした。
ある銀行では、行員たちがマスクをして古い札束を数えている姿がカウンター越しに垣間見え、預金者はそのお金を麻袋いっぱいに詰め込んで肩に担いで立ち去っていきました。厳しい経済制裁の下で物が不足し、慢性的な高インフレが続く国でもありました。
2011年の経済改革の中で、政府は為替制度を見直し始めていました。しかし決定方法が異なるいくつもの為替レートが存在する多重為替制度が運用され、実質的に国内企業に有利な会社法の存在もあったことから、外国人がミャンマー企業へ投資することは不可能な状況にありました。
規制緩和で急成長した携帯電話市場
それから5年後の2016年。再びミャンマーを訪れた筆者は目を見張りました。パゴダの敷地内には数社のATMが立ち並び、いつでも現金を下ろして「金箔」のお布施ができたのです。カードや携帯電話の利用も大幅に自由化されていました。
中でも目を引いたのが、携帯電話の普及率で、2011年の約2%から2016年には一気に95%へと上昇し、2018年には114%に達しました。他国と比べても、普及スピードは明らかに早いでしょう。
これは規制緩和が非常に大きな効果を発揮したためと言えるでしょう。2011年の民主化前はMPT(国営の郵便・通信会社)が携帯電話市場を独占していましたが、政府が外資開放に踏み切ったことで、2014年7月にKDDI・住友商事連合がMPTと提携して参入。
さらに外資系企業2社が相次ぎ参入し、値下げ競争を繰り広げた結果、通話料金は一気に半値へ低下し、携帯電話の購入は容易になりました。格安SIM カードの販売開始や、携帯電話の購入に係るマイクロファイナンスの普及など他の要因も、販売が急拡大した背景にあります。携帯電話が普及したことで、2016 年にはモバイル金融サービスの提供が始まり、利用者数が拡大しています。
物欲とは無縁に見られたミャンマーですが、かつては見られなかった携帯電話や外資の飲食品の広告が、バス停やビルの上に所狭しと掲げられるようになっていました。さらに、2019年には国際空港近くに国内初のスケート場や、富裕層向け高級映画館が登場するなど、体験を売る「コト消費」を狙ったサービスが開始。
2020年3月には電子商取引の業界団体「ミャンマーEC協会(ECAM)」が正式発足しています。規制緩和や促進策などが上手く効果を発揮できれば、最新の技術や製品、サービスがわずか数年で一気に普及するお手本のような国と言えるでしょう。