はじめに

江戸町の人口調査

ここまでの話から推測できるのは、江戸の町の人口流動性の高さです。

前回の記事に書いたとおり、江戸の商人たちは血縁主義ではなく、金銭で営業権を売買していました。ちょっとのお金とやる気さえあれば、誰でも江戸の町で商売を始めることができました。いつか大店を構えることを夢見て、たくさんの人が江戸に集まってきたはずです。

一方、実際の商売は決して甘いものではありませんでした。

白米や炭薪、燃料、飲食などの商売は参入障壁が低く、比較的簡単に始めることができました。一方で競争は激しく、薄利だったはずです。結果、ほとんどの店は長続きせず、一代限りで――ときには10年も経たずに――商売を畳んでいました。夢破れて江戸を離れる人も少なくなかったでしょう。

結果、江戸の町では激しい人口の流入・流出が生じていたと考えられます。

江戸を離れる人は、家財道具を売り払って小銭を得たでしょう。江戸に越してきた人は、そういう古道具を買いそろえて新生活をスタートしたことでしょう。さらには独り身の住人が多く、居酒屋や立ち食い飯屋で食事を済ませる者も多かったはずです。こうしてリサイクル業や飲食業が広まりました。

山室氏はいわば「答え合わせ」として、江戸の人口も分析しています。幕末に行われた江戸町人の人口調査には、『天保撰要類集』など、江戸生まれの人とそうでない人とを分けてカウントしたものがあります。それを調べると、1832~1867年の35年間に渡り、住人の4人に1人は「他所生まれ」でした。人口の流出と流入が均衡していたため、これほど長期間にわたり江戸生まれとそうでない人との人口比率が保たれたのです。

たとえば「佃煮」は、もともと江戸の佃島の伝統料理です。また「おでん」はもともと味噌田楽の略語でしたが、江戸っ子たちは「味噌がつく」のを嫌がったために出汁で煮込むようになったと言われています。

いつの時代も都市には人が集まり、各地の文化や風習を持ち込みます。そこで伝統が混ぜ合わされて、新たな文化が生まれます。いつの時代も、都市からは人が離れ、そういう文化を地元に持ち帰ります。

このような文化の新陳代謝は、江戸時代にもあったのです。

■参考文献■
【主要参考文献】
山室恭子『大江戸商い白書』講談社選書メチエ(2015年)

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