はじめに

口さがない京都出身の友人は、「東京は田舎モンの集まり」と揶揄します。親子三代暮らさなければ江戸っ子ではありませんが、そんな人はわずかです。東京の住人の大半は田舎から上京してきた人々であり、いずれは田舎に戻る人々である――。

その指摘には一片の真実が含まれています。


江戸商人の事業分野

東京の人口流動性の高さは、今に始まったものではありません。およそ200年前、あの都市がまだ「江戸」と呼ばれていたころから、同じ状況だったようです。

それは当時の商人たちの分布を調べることで分かります。

前回の記事でも紹介した山室恭子氏の分析によれば、当時(18世紀末~19世紀前半)の江戸商人は大きく3つのグループ――「特化型」「都心型」「全域型」に分けられるといいます。

「特化型」江戸商人グループ

まず例外的なものから先に説明すると、「特化型」は札差や人宿、飛脚屋です。

武家相手の商売なら浅草蔵前が便利ですし、飛脚なら東海道の入り口がいいでしょう。これら特定地域の特色に根ざした商売を、山室氏は特化型と名付けています。

「都心型」江戸商人グループ

続いて「都心型」は、その名の通り繁華街に多かった業種です。

現在の日本橋一帯には、呉服屋や煙管、鼈甲櫛、薬屋など、贅沢品を商う店が集まっていました。この連載で度々登場している三井越後屋も、ここに含まれます。

「全域型」江戸商人グループ

最後に「全域型」は、江戸の町に広く分布していた業種を指します。つき米屋(※米の精白販売を行う小売商)や炭屋、味噌屋、地掛蝋燭屋など、一般消費財を扱う者が含まれます。

興味深いのは菓子屋で、嗜好品であることを考えると「都心型」になりそうなものです。しかしデータを見ると、実際には「全域型」だったようです。

現在の私たちも、どうしても「CACAO SAMPAKA」のチョコレートが食べたければ、丸の内の路面店まで足を運びます。が、ちょっと甘いものを口にしたいだけなら、近所のコンビニ菓子で満足します。同様に、当時の江戸の人々も町角の菓子屋でせんべいを買い、小腹を満たしていたのかもしれません。それだけ豊かな消費社会がすでに生まれていたとも言えます。

なお、全域型の商家は平均存続年数が短かった点も特徴です。

味噌問屋は平均15.1年、炭薪仲買等は平均12.9年、地掛蝋燭屋は平均12.2年、つき米屋に至っては平均8.1年で店を閉じていました。前回の記事では、江戸商家の平均存続年数は15.7年だったと書きましたが、それよりもさらに短い結果です。

また、全域型の事業者は店舗数も多かったようです。江戸の町人人口がおよそ57万人だったのに対して、つき米屋は1851年の時点で2919軒が営業していました。じつに195人あたり1軒の割合で、白米の小売店が存在したことになります。当然ながら、利益は極めて薄かったことが想像されます。

ところで、古典落語の有名な演目に『井戸の茶碗』があります。くず屋の主人公がひょんなことからドタバタのコメディに巻き込まれる爆笑必至のストーリーです。興味を引くのは、主人公の職業。くず屋とは、不要品を回収して売り払う古道具屋の一種でした。

江戸の町には、このようなリサイクル業を営む者がとても多かったことが知られています。1774年に幕府が行った調査結果が『諸問屋再興調』にまとめられており、それによれば古道具屋は3,843人、古着買は2,043人、古鉄屋は1,216人だったそうです。1774年の江戸人口は482,747人だったので、じつに126人あたり1軒の割合で古道具屋があったことになります。

また、飲食店の多さも特筆に値します。

1804年から1835年にかけて、つねに約6,000~7,000軒の飲食店が営業していました。居酒屋だけでも、1811年には1,808軒が営業していたことが分かっています。古道具屋に負けず劣らずの一大勢力です。

私は宮部みゆき先生の時代小説が好きなのですが、先生の作品にはしばしば美味しそうな江戸のグルメが登場します。宮部作品に描かれている通り、江戸の町では外食産業が花開いていたようです。

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