はじめに
「説明的すぎる」ほどよい!?
では、例をもう1つ挙げましょう。会議終了後、とくに意見もなく、その会議ではなにも発言しなかった社員AとBが交わした、エレベーターホールでの会話です。
社員A「プランDはまずいんじゃないかな」
社員B「うまくいかなかったら社長がなんとかするだろ?」
こういった他愛ない日常会話はよくあります。フォーマルな場で理詰めのディスカッションをしているわけではないので、日本では、日常的にはこれで『全然OK』ですね。
それとは話は別ですが、この例は「論理」という点を考えるためにはいい題材なので、これを論理の面から見てみましょう。この対話は論理的にはどうでしょう? ──はい、ムチャクチャです。それがわかりますか?
ざっと概略を書くと、以下の通りです。
Aは、プランDがまずいと考える理由を述べていません。またBは、Aの質問に答えていません(プランDがまずいか否かに関してなにも述べていません)。答える代わりに予想を述べていますが、そのように予想する理由を述べていないのです。
また、Bの発言には言外に「プランDがまずくても大した問題ではない」がありますが、それは言外にとどまり、明言されていません(Bはそのように考えているので、プランDがまずいか否かに関して述べることを省略してしまっています。『うまくいかなかったら社長がなんとかするだろ?』と述べることで「プランDがまずくても大した問題ではない」の意は伝わるだろう、と思うがゆえの省略です)。
では、論理性の高い人たちなら、この他愛ない対話がどのようになるかを考えてみてください。あなたが思いつく対話例は、どのようになりますか? 論理性の高い人たちの場合は、たとえば、以下のとおりです。
〈論理的な対話例〉
社員A「プランDはまずいんじゃないかな、▽▽だから」
社員B「僕はそうは思わないな、▲▲だから。
それに、仮にまずくても大した問題じゃないよ。
うまくいかなかったら、社長がなんとかするだろうさ。
いつも社長はそうしてるからね」
これで最高に論理的といえるほどのものではありませんが、論理面では、前述の欠陥はなくなり、まあまあの及第点、といったところでしょう(フォーマルな場でのディスカッションではありませんから、これで十分でしょう)。
もっとも、最高に論理的といえるレベルではないとはいえ、日本語の「表現を徹底的に省略」の習慣に深くなじんでいる人には、これでは「くどい」とか「説明的すぎる」という風にしか感じられなくて、このような対話をしたくないと思う人は多いかもしれませんね。
でも、これが論理的な(論理性の高い)対話なのです。──つまり、「くどい」とか「説明的すぎる」と思う人たちは、その思いを克服し、くどく、説明的すぎるほどでありましょう、ということです。