はじめに

打ち破られた「マルサスの罠」

ところが、です。18世紀末以降、状況が一変しました。

まずイギリス、続いて北米や西ヨーロッパ、さらに日本が「マルサスの罠」を打ち破ったのです。

現在の経済先進国の所得水準は、200年前の10~20倍に達しています。平均寿命も大きく伸びました。物質的な豊かさは言わずもがな。かつて貧困には栄養失調がつきものでしたが、現在の先進国の低所得層では肥満と生活習慣病が問題です。

かつて美食や音楽、芸術、ファッション、海外旅行は特権階級のものでした。ところが現在の先進国では、それらは広く一般庶民にまで浸透しています。これを「革命的」と呼ばずして何と呼べばいいのでしょう。

どういうわけか18世紀末ごろを境に、人類の科学・技術・経済は爆発的な成長を始めました。そして、その成長は今もまだ続いています。

「産業革命」の定義

私が「産業革命」という場合、18世紀末以降のこの変化全体を指しています。私たちは今なおその革命の渦中にいるのです。

人口の大多数が農業に従事して食うや食わずやの生活を送っていた時代から、食べ過ぎとダイエットが話題になる時代へ。生まれた子供の4人に1人が大人になれなかった時代から、平均寿命が80歳代に達する時代へ――。これは科学技術の勝利であり、それらにカネを配分できる経済の勝利です。

これほど劇的な変化が厳然たる事実として存在するのに、「産業革命はなかった」と強弁することはできないでしょう。

思うに、これは言葉の定義の問題かもしれません。

たとえばフランス革命における「バスティーユ監獄襲撃事件」や、アメリカ独立戦争における「レキシントン・コンコードの戦い」など、大抵の「革命」にはその契機となるできごとがつきものです。

ところが産業革命には、そのような明確な契機はありません。

「この日に革命が始まった」と呼べるような日時が存在しないのです。また、すでに述べたとおり、私たちは未だに革命の渦中にいます。もしも「革命と呼ぶからには開始・終了を明示できなければならない」と考えるのなら、たしかに産業革命はなかったと言えるかもしれません。

いうなれば「産業革命」は、地質学における「大量絶滅」のようなものかもしれません。

私たちは、一発の巨大隕石が衝突して、その熱風と衝撃波で恐竜が滅んだというイメージを抱きがちです。しかし実際には、隕石の衝突によって巻き上がった粉塵が太陽光を遮り、寒冷化を始めとした気候変動をもたらしました。恐竜たちはある日突然、地球上から蒸発したのではありません。数十年、数百年、ことによると数万年という長い時間をかけて、ゆっくりと滅んでいったのです。※さらに一部の恐竜は鳥に進化しました。その点では、恐竜はまだ滅んでいないと言うこともできます

同様に、産業革命もある日突然始まったわけではありません。一つひとつの変化はわずかで、「革命」と呼びがたいほど些細なものだったでしょう。ところが200年後の現代からふり返ってみれば、明らかに18世紀末に目覚ましい変化が起きているのです。1万年の人類文明のなかでも、とびきりの変化があったのです。

私はそれを「産業革命」を呼びます。

■主要参考文献■
グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』
ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』
アンガス・ディートン『大脱出』
マッシモ・リヴィ‐バッチ『人口の世界史』

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