はじめに
産業革命は18世紀末のイギリスで始まりました。では、なぜそれはイギリスで始まったのでしょうか? なぜ文化的には(日本から見れば)似たり寄ったりの隣国フランスやドイツではなかったのでしょうか? 15世紀までは人類の科学文明のトップを走ってきたはずの中国ではなく、ヨーロッパの辺境の島国だったのでしょうか?
人間から機械へ
「なぜ産業革命はイギリスで始まったのか?」
この疑問には、明快で決定的な解答はありません。100人の識者がいれば100通りの答えがあります。したがって今回の記事で書く内容も、あくまでも現時点での私の理解にすぎないことをお断りしておきます。
業種の側面から言えば、産業革命は繊維業界から始まりました。ジョン・ケイの「飛び杼(1733年)」、ジェームス・ハーグリーブスの「ジェニー紡績機(1769年)」、リチャード・アークライトの「水力紡績機(1769年)」、サミュエル・クロンプトンの「ミュール紡績機(1779年)」などが代表的な発明品として知られています。
また、産業革命といえば蒸気機関とは切っても切り離せません。世界で最初の実用的な蒸気機関は、トマス・ニューコメンが1712年に完成させました。炭鉱に貯まった地下水や雨水を排出するためのポンプとして利用されました。
これらの発明の共通点は、「人間の労働を機械に置き換えるもの」だったという点です。
なぜ産業革命はイギリスで起きたのか
さらに、産業革命には革新的な科学的発見は必要ありませんでした。これは少し意外に思えるかもしれません。たとえば1769年にジェームズ・ワットが改良型の蒸気機関を設計したとき、取り立てて新しい科学知識を用いたわけではありませんでした。「蒸気機関車の父」と呼ばれるジョージ・スティーヴンソンは、炭鉱街の貧しい家庭に生まれました。「モールス信号」を発明したサミュエル・モールスは、元々は絵描きであり、発明に関してはアマチュアでした。
この時代に活躍した発明家たちは、決して高度な専門教育を受けた人ばかりではありません。産業革命のなかで生まれた重要な発明の大半は、アルキメデスよりも多くの知識を要するものではなかった――と、言われています。
ならば、なぜ古代ギリシャやローマの人々は、産業革命を起こせなかったのでしょうか? なぜ私たち人類は、1000年以上後のイギリスを待たなければならなかったのでしょうか?
この疑問に答えるには、産業革命からさらに数百年歴史をさかのぼらなければなりません。
イングランドでは13世紀に『マグナ・カルタ』が制定されました。これは無策な戦争に辟易した貴族たちが国王に突きつけたもので、王の権力を制限し、法で縛るものでした。他の国・地域では――たとえば日本の『十七条の憲法』のように――権力者が臣下の者を縛るために法を用いたのとは根本的に異なります。中世のイングランドはヨーロッパのなかでも「ド田舎」です。国王といえども、それほど強い権力をふるえなかったのかもしれません。
14~15世紀、ヨーロッパをペストの災禍が襲いました。
これにより人口が大幅に減少するわけですが、当時の人々のほとんどは農民です。つまりペストによる人口減少とは、農民の減少とイコールでした。数が減ったことで政治力を失った農民たちは、東欧やロシアでは農奴へと身を落とすことになります。
ヨーマン(独立自営農民)の登場
一方、イングランドではペスト禍はまったく逆方向の結果を残しました。
もともと『マグナ・カルタ』を制定するような、下々の者が上位の者に(ある意味で)楯突くことができる風土だったのかもしれません。また、王族や貴族の力がそれほど強くなかったのかもしれません。農民たちは自分たちの権利を主張するようになりました。
ペストにより人口が減ると、貴族たちは深刻な労働力不足に直面しました。荘園で働いていた小作人たちは、よりよい待遇を領主に求めるようになり、それが叶えられない場合には別の荘園へと逃げるようになったのです。こうしてイングランドでは封建的な秩序が弱まり、自分の土地を自分で耕す「ヨーマン(独立自営農民)」が登場しました。
16世紀、ヘンリー8世によるカトリック教会との決別も、封建制の崩壊に拍車をかけました。彼は最初の妻キャサリンとの離婚を望みましたが、ローマのカトリック教会はそれを許しませんでした。そこで彼はローマとの関係を絶ち、「イングランド国教会」を立ち上げました。このとき、全農地の約1/4を管理していた修道院の所有地が没収され、下級貴族や商人たちに売却されたのです。
このような封建秩序の弱体化は、土地の所有者と小作人との関係をも変化させました。