はじめに

バクチが止まらないドストエフスキー

19世紀ロシアを代表する文豪、 フョードル・ドストエフスキー 。1821年、モスクワの軍医の家庭に生まれた彼は、軍人を目指し1843年に工兵学校を卒業しています。階級は少尉でしたが、配属先は工兵隊製図局でした。

この頃、すでにドストエフスキーの父は他界しており、亡父から土地を相続した妹ワルワーラとその夫カレーピンから、1年あたり1000ルーブルの現金が送られていました。当時の1ルーブルは現代日本円で1000円相当なので、 100万円 ほどになりますね。

この土地収入と製図局の給料を合計すれば、おおよそ5000ルーブル(= 500万円 )の収入が当時のドストエフスキーにはありました。しかし、ドストエフスキーの生涯にわたる病である浪費癖とバクチ癖がすでに彼を悩ませており、なんと8000ルーブル(= 800万円 )の借金までありました。

それにもかかわらず、「工兵隊製図局の勤めがイヤ」という理由でドストエフスキーはわずか1年で退職を敢行。「 さて、さしあたり何をするか、それが問題です 」などと兄にノンキな手紙を送ったのち、具体的な成功の目論見がないまま作家を目指すことになったのです。

その後は大変でした。ロシア皇帝への反逆罪で処刑されそうになったり、彼を愛してもいない未亡人に入れあげて辛酸をなめたり。小説家として頭角を現すものの、少しお金が入れば浪費とバクチ、家計は常に火の車です。おまけに好きになった女性からはいつも冷たく振られ、金も愛もない人生を過ごしていたドストエフスキーは、悪徳出版業者ステロフスキーの手口にかかります。「 当座の金は貸すが、一定期間で2本の長編小説を仕上げられない限り、作品の著作権はすべて没収するし、違約金も支払え 」という驚愕の悪条件での執筆を余儀なくされたのでした。

アンナとの出会い

この時、なんとか書きあげた1本目が『罪と罰』。セールスも振るいましたが、ドストエフスキーは2本目の『賭博者』の執筆に行き詰まりました。

違約金発生期限まであとわずかという時、20歳の女学生 アンナ・グリゴーリエヴナ をアルバイトに雇います。彼女の速記に助けられ、なんとか原稿は完成して事なきを得られました。ドストエフスキーは当時45歳。アンナとは25歳も年齢差があり、彼女の家族から猛反対を受けつつも二人は結婚にまでこぎつけます。

しかし、さすがは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」タイプのドストエフスキー。新妻アンナとドイツ旅行をする中でも、カジノを見つければ入り浸り、1週間で有り金すべてをスッてしまってもなお手が止まらず、荷物を質入れしてまで賭け続けます。

「往々にして夫は自制がきかず、質に入れて得たばかりの金をすっかり負けてしまうことがあった」とアンナが語る一方、完全破産の一歩手前でドストエフスキーが4300ターラーの金貨が入った袋を持ち帰ってきたこともありました。19世紀の1ターラーは現代日本の5000~1万円ですから、少なく見積もっても 2000万円以上 の大勝ちです。しかし、その金貨もやがて使い切ってしまいました。

アンナいわく、賭け事に狂った状態のドストエフスキーを止める術はないそうです。本人が疲れ果て満足するまで、ただ待つことしかできませんでした。よく離婚しなかったものです。ドストエフスキーの小説には悲惨な境遇の主人公を支える献身的な女性が登場しがちですが、まさにアンナは彼の理想だったといえるでしょう。

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