はじめに
震災、原発事故から7年が過ぎた福島県。東京電力福島第一原発の廃炉作業はいまだ長く困難な道のりの途上にあります。一方で、被災者の立場を超えて地域の草の根的な再生に取り組み、成果を上げている人たちも少なくありません。福島県いわき市でオーガニックコットンの栽培や太陽光発電の普及に取り組む「いわきおてんとSUN企業組合」のビジネスモデルを見てみましょう。
古民家で「風呂敷」ワークショップ
震災7年の「3・11」を翌日に控えた3月10日のいわき市。町外れの古民家にマイクロバスが到着し、十数人が降り立ちました。ほとんどは女性で、小さな子ども連れの若い母親もいます。
一行が民家に上がり込むと、室内で出迎えたのは「LUSH(ラッシュ)」の大きな看板。そして紫や青を基調にした鮮やかなプリント柄の布。石けん・化粧品メーカーのラッシュジャパンが「ノットラップ(Knot Wrap)」と呼ぶ布製のラッピング材、つまり「風呂敷」を使ったワークショップの開催でした。
ノットラップを活用して「ヘアターバン」にするワークショップ
参加者はラッシュのフェイスブックやインスタグラムを通じて申し込みをしたラッシュ製品のファンを中心に、地元福島や東京のほか、島根県から「電車とバスを乗り継いできました」という男女も。「原発事故があった福島だから」という抵抗を感じる声は聞かれません。むしろ福島の再生にかける思いを聞こうという熱意があふれます。
この民家を事務所としても活用している「いわきおてんとSUN企業組合」代表理事の吉田恵美子さんとオーガニックコットン事業部の酒井悠太さんは、こう呼び掛けました。
「震災直後、いわき市も大きな混乱があった中で市民主体のまちづくりをしようと立ち上がったのが私たちの団体。いわき市の農業に少しでも手助けになれないか、そして環境に配慮したものをつくれないかと、オーガニックコットンの栽培を始めて6年になります。私たちが育てたコットンでつくられた風呂敷を、世界の方たちに、日常生活の中で普通に使っていただきたい」
ワークショップであいさつする「いわきおてんとSUN」代表理事の吉田恵美子さん(左奥)
震災、原発事故後の畑で奮起
吉田さんは1990年に地元で市民団体「ザ・ピープル」を設立。古着リサイクルを中心に障害者福祉から海外支援まで幅広い活動を展開していました。リサイクル活動の中では、火災などで衣類をなくした人に古着を提供した経験があり、2004年にNPO法人化する際には「災害救援」を活動の一つに掲げていました。
「3・11」で震度6弱の激しい揺れに襲われた福島県いわき市。津波で沿岸部では460人以上の命が奪われました。そして原発事故による混乱で、街はゴーストタウンのように人影がなくなっていきます。こうした中で吉田さんは、つながりのあった全国の団体や事業者から寄せられた支援物資を避難所に届けたり、避難している母親たちに調理機器や食材を提供したりしていました。
後者のプロジェクトで食材を買い上げるために農家を訪ねると、多くが今後どうすればよいのかと途方に暮れていました。食材をつくっても「売れない」「子や孫に食べさせられない」。かつての基幹産業であったいわき市の農業は、高齢化と後継者不足で震災前から衰退の一途にありました。そこに原発事故が追い打ちをかけ、農家は次々に土を耕す手を止めていきました。この状況をどう打開すればいいのか。吉田さんも我がこととして悩み続けました。
地震発生から約4カ月後、吉田さんは宮城県で開かれた復興支援に取り組む東京の女性経営者らの集まりに招かれました。そこで、国内のオーガニックコットン輸入販売の先駆者である「アバンティ」の渡邊智恵子社長から、オーガニックコットンの栽培を提案されました。そのとき、吉田さんは苦悩する農家の顔が思い浮かぶとともに、「食用が難しいのならば、体に入らない作物を育てればいい」と気づいたと言います。
もちろん、吉田さんにコットン栽培の経験はありません。当時、既に仙台市や岩沼市などの津波被災地で、塩害に強いとされるトマトやコットンを栽培する試みが始まっていました。吉田さんはその現場を視察した上で、渡邊社長を介して日本の在来種「備中茶綿」の種が保管されている信州大学まで足を運び、種の提供や栽培の指導を受けるなど、一歩一歩前に踏み出し始めました。
地元でも畑を提供してくれる農家や協力者を探し、資金は地球環境基金の助成金と「ザ・ピープル」本体からの持ち出し分を用意。2012年4月、いわき市内15カ所、約1.5ヘクタールの畑で「いわきオーガニックコットンプロジェクト」をスタートさせます。首都圏からのボランティアやインターンシップの大学生らも受け入れ、文字通り手探りで種まきから苗植え、夏場の水やりや雑草とりに励みました。
手間のかかるコットン生産は、日本ではもうほとんど行われなくなっています。誰も正解を知らない中で、栽培方針をめぐって現場では多くの衝突が生まれたそうです。それでもコットンは一つひとつ実をつけ、和綿特有の茶色いワタをのぞかせてくれるようになりました。