はじめに

経済・理財の和製漢語化

江戸以前にメジャーだった「経済」とマイナーだった「理財」。このふたつの言葉が、幕末以降、劇的な出合いを果たすことになります。どちらの言葉も西洋的な経済概念を意味するようになったのです。

まず「経済」の方から。日本の近代化を進めた要人たち(西周、津田真道、福沢諭吉など)がオランダ語の「staathuishoudkundeや英語political economy(経済学、現在の英語で言うeconomics)」の訳語として「経済」を使うようになったと言われています。おおむね1860年代に起こった出来事でした。

いっぽう「理財」にも動きがありました。日本最初の哲学辞典である『哲学字彙(てつがくじい)』(1881年・明治14年)では、英語economicsの訳語として「理財」が登場しました。また東京大学では、1878年(明治11年)以降の一時期、西洋的な経済概念を表す言葉として「理財」という表現を使っていたのです。

こうして幕末以降、「経済」も「理財」も西洋的な経済概念を意味する言葉に変貌を遂げました。言い換えると「経済」も「理財」も、中国の古典に基づく意味から離れて「和製漢語」として再定義されたわけです。

明治の知識人は「理財」推しだった

実際のところ、西洋的な経済概念を意味する日本語としては、明治時代から現代にかけて「理財」よりも「経済」が優位であり続けました。しかし大学の世界に限って言えば、明治から大正にかけての一時期、なぜか「理財」の存在感が大きかったことがあります。

例えば東京大学の場合は、1879年(明治12年)から1893年(明治26)にかけての時期に「理財学」「理財史」などの言葉を使用していました。また専修学校(現・専修大学)では1888年(明治21年)から1905年(明治38年)まで「理財科」という学科名を用いていました。さらに慶應義塾も1890年(明治23年)から1919年(大正8年)にかけて「理財科」を用いていました。つまり、明治時代の経済教育では「理財」に存在感があったのです。

このような動きの背景には、明治時代の知識人が「経済」につきまとう「経世済民」のイメージを嫌っていた事情があったようです。前述したとおり、江戸時代以降の「経済」には「経世済民論」のイメージが強く結びついていました。この政治的または道徳的なイメージが、学術としての経済を表現するうえで邪魔だったのでしょう。実際、福沢諭吉は西洋的経済学を意味する言葉として「理財学」、西周は「制産学」を使いたがっていたとの指摘もあるほどです。

しかし「経済」が生き残った

しかしながら前述した各大学は、遅くとも大正時代までには「理財」の看板を「経済」に戻し、それが現在に至っています。実は各大学が「理財」という表現を使っている時期も、同じ大学が「経済」を含む科目呼称などを併用していた状況もありました。

1893年(明治26年)、東京大学(当時・帝国大学)が「理財学」を「経済学」に戻した際の経緯について、こんな記録も残っています。当時、同大学の法科大学長をつとめた穂積陳重の述懐です(法窓夜話、1926年・大正15年より)。

「世間では経済学という語は(中略)既に慣用語となっているし(中略)やはり『経済学』という名称に復するのが好(よ)いという論が、金井・和田垣両教授などから出て(中略)再び経済学という名称に復したのである」

結局のところ「経世済民イメージの払拭」という目的は、「経済」という表現において達成されてしまったので、わざわざ馴染みのない「理財」を使う必要性はなくなった――ということかもしれません。

ということで、前後編に亘って紹介した「理財」の意味と歴史のコラムはここまで。歴史に「たられば」はないといいますが、ことの展開次第では「経済成長」は「理財成長」だったかもしれず、「マクロ経済」は「マクロ理財」だった可能性もあるわけです。歴史というものは非常に面白いものだと改めて感じているところです。

参考:「経済学と『理財学』」(下谷政弘、福井大学論集・第36号、2011年・平成23年)「法窓夜話」(穂積陳重、有斐閣、1926年・大正15年)など

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