はじめに

大航海時代以前の通貨事情

話を歴史に戻しましょう。

この連載では以前にも紹介しましたが、ヨーロッパにおける金属のお金の起源は古代ギリシャ時代のリディアです。以来、貴金属をお金と見なす価値観はヨーロッパに根付きました。古代ローマではデナリウス銀貨と呼ばれるコインが作られ、日常的な経済活動に用いられました。

日本を始めとした中国の影響を受けた文化圏では、歴史的にコインは「鋳造」されてきました。一方、ヨーロッパのコインは「鍛造」が主流です。どういうことかというと、溶かした金属を型に流し込むのではなく、金属の球を印章の刻まれたハンマーで叩いて、円盤状に整形するのです。この方法ではコインの形はいびつになるものの、使用されている貴金属の重さを一定に保ちやすいという利点があります。素材となる金属球の重さを揃えておけば、コインの重さも一定にできます。[20]

古代ローマのデナリウスという通貨単位は寿命が長く、西暦800年に(後の神聖ローマ帝国の端緒となる)カール大帝が帝位を授けられたときにも使われていました。ただし、当時のヨーロッパでは銀貨はかなり貴重になっていました。金属不足のために、胡椒やリスの毛皮が通貨の代用として使われている地域さえありました。中東や地中海南部のイスラム商人たちが商売の決済に使うため、貴金属がヨーロッパから流出していたのです。こうした金銀財宝を略奪によって取り戻すことも、11世紀から始まる十字軍遠征の動機の1つでした。[21]

もちろんヨーロッパ人も、貴金属不足を自力で解決しようとしなかったわけではありません。

16世紀初頭、現在のチェコ、ドイツ国境にもほど近いヤーヒモフという谷で少量の銀が発見されました。1517年からは上質の銀貨を生産するようになり、ヨーロッパ中に流通します。この銀貨はドイツ語で「谷のもの」を意味する「thaler(ターラー)」と呼ばれ、それが訛って、スペインでは「dolera(ドレラ)」、イングランドでは「doller(ダラー)」と呼ばれるようになりました。これが「ドル」という通貨単位の始まりです。[22]

ここまでが、スペイン人が新大陸で金銀を発見する前史です。

余談ですが、もとはヤーヒモフ産の銀貨を意味していた「ドレラ」は、やがて銀貨一般を指すようになります。特にメキシコ産の「メキシコ・ドル」は高品質であり、大航海時代という背景もあって世界中に流通しました。

当時の北米植民地では母国イギリスのポンドを入手しづらく、メキシコ・ドルのほうが普及しました。現在のアメリカの通貨単位がドルになった由来です。またメキシコ・ドルは円盤状だったので、中国では「銀圓」と呼ばれました。やがて「銀」が省略されて「圓」とだけ呼ばれるようになり、中国語で同じ発音の漢字「元」が当てられるようになりました。「圓」は韓国では「ウォン」になり、そして日本では「円」になります。[23]16世紀はグローバリゼーションが始まった時代ですが、通貨単位からもそのことが分かります。

スペイン帝国はヨーロッパの貨幣供給を増やした

スペイン帝国が中南米で手に入れた貴金属の鉱脈は、ヤーヒモフとは比べものにならない規模でした。かつて経験したことがないほどの大量の金銀が、スペインに流れ込んだのです。

しかし、その金銀はスペイン国内には長く留まりませんでした。あっという間に他国へと流出したのです。スペイン王室が自国の産業振興に消極的だったことも災いしたでしょう。スペイン人たちは何か欲しいものがあっても、他国から輸入せざるを得なかったはずです。支払い手段に銀貨を使えば、当然、それは他国の手に渡ります。

さらにフランスからは、スペインの高賃金に惹かれて多数の労働者が出稼ぎに来ていました。彼らの手によって、新大陸の銀はまずフランスに、そしてヨーロッパ全土へと流れ出ていったのです。「スペイン人がエル・ドラドの黄金を掘り出したのは、フランス人を金持ちにするためだった」ということわざさえ生まれました。[24]

フェルナンド王を始め、カルロス1世もフェリペ2世も気付きませんでしたが、貴金属の価値は絶対的なものではありません。他の商品と同様、供給量が増えれば価値は下がります。大量の銀を持ち込んだことで、当時のヨーロッパでは銀の価値が下落してしまったのです。言い換えれば、銀の持っていた他の商品との交換能力――すなわちお金としての価値――が落ちたのです。

こうして1540年代から1640年代にかけて、ヨーロッパ全土で大規模なインフレーションが起きました。どれほど物価が上がったのかは資料によってまちまちですが、一般的には2~3倍になったと言われています。こういう物価統計で信頼できるデータが残されているのはまたしてもイギリスで、16世紀からの100年間で生活費は7倍に膨らみました。[25]

このインフレーションのことを「価格革命」と呼びます。

現在のように穏やかなインフレが続くのは、実は20世紀以降の現象です。それ以前の何世紀にも渡り、世界の物価は極めて安定していました。[26]停滞していたといってもいいでしょう。たしかに政治制度や芸術、文化は時代とともに進歩してきました。が、経済そのものはほとんど成長せず、庶民の生活は基本的に貧しいままだったのです。そういう時代に、現代のようなインフレなど起きるはずがありません。

だからこそ「価格革命」は、文字通り革命的な出来事だったのです。

実のところ、100年間で7倍の物価上昇は、年率に直せば2%ほどです。現代のインフレ率からすれば大したことはなく、むしろ望ましいとされている水準です。

しかし当時の人々は数世紀にわたり物価上昇を経験しておらず、またその後の数世紀も同じでした。当時の人々にしてみれば、空前絶後のできごとだったのです。

この物価上昇で特に打撃を受けたのは、固定の地代で生活していた領主です。毎年の収入は一定の金額なのに、物価が上昇してしまったのだから当然です。彼らの生活は苦しく、力は弱くなりました。こうしてヨーロッパの封建制度は、やがて崩壊に向かいます。

スペイン帝国は植民地の略奪と開発により、金銀を得ようとしました。一方、イギリスのように植民地で貴金属を見つけられなかった国々は、貿易によって金銀を国内に貯め込もうと考えるようになりました。

このような貿易による利益獲得を重視する政策は、その後「重商主義」と呼ばれるようになります。これが、後に大英帝国が覇権を握る布石になります。

貴金属はお金の価値を表しているだけで、お金そのものではありません。地中からどれだけ金銀を掘り出しても、お金そのものを採掘しているわけではないのです。天然資源といえばニシンぐらいしか採れなかった当時のオランダは、スペイン帝国の税収を賄う豊かな地域でした。お金を生み出すには、金銀ではない別の何かが必要なのです。

スペイン帝国はそのことに気づけず、やがて衰退しました。

価格革命による封建制の弱体化という、置き土産を残して。

■参考文献■
[20]坂谷敏彦『金融の世界史』新潮新書(2013年)p31-32、37-38
[21]ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』ハヤカワノンフィクション文庫(2015年)p55
[22]坂谷敏彦(2013年)p79
[23]坂谷敏彦(2013年)p79p80-81
[24]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』日経ビジネス人文庫(2015年)p111-112
[25]ニーアル・ファーガソン(2015年)p57
[26]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)p252-255

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