はじめに

前回の記事では、江戸の三井越後屋の帳簿を紹介しました。当時の日本としては先進的な帳簿であるだけでなく、歴史的な史料としても重要です。

私たちが「江戸の商人」と聞いてイメージするシーンは、三井家の帳簿に大きく影響を受けています。店の主人は代々の家を守ることに心血を注ぎ、優秀な番頭さんが商売を回し、多数の奉公人が出入りする――。時代劇や古典落語に描かれる商人のイメージは、三井家の帳簿と無関係ではありません。

ところが三井家は、決して当時の一般的な商人の姿ではありませんでした。


江戸商人の実態

三井家はむしろ、呉服屋として極めて異例の大店でした。

当時の商人たちは「株」と呼ばれる営業権を幕府から得て商売を行っていました。事業が安定している店では、子孫に株を相続させて商売を継続していました。

一方、他人に株を譲渡することで商売を終了する場合もありました。この場合は、株から得られる見込み収益に合わせて対価が支払われていたようです。

また、引き継ぐ相手が見つからない場合には、休株(やすみかぶ)として株の効力を停止しました(※ごく稀に休株の引き受け手が後になって見つかる場合もありました)。もちろん、幕府に対して新規株の発行を申請することもできましたが、これは簡単には許可されなかったようです。

歴史研究者の田中康雄氏は、これら「株」に関する史料を収集し、『江戸商家・商人名データ総覧』という巨大なデータ一覧を作成しました。データの総数は実に74,000件。1冊あたり定価3万円超の単行本で全7巻という大著です。

山室恭子氏は、この『データ総覧』をもとに江戸商人の実態を調査しています。それによれば、商売の存続期間が確認できた1977軒のうち、101年以上にわたり店が維持されたのは17軒。わずか1%にも満たないレアケースだったようです。

長命な商家のなかでも三井家は異例でした。長く続いた商家のほとんどは、両替商や札差*などの金融業者でした。

※札差とは、幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介業者です。米の売買や運搬の手数料収入のほか、米を担保にした貸金業も行っていました

さらに、それらに混じって、染料や石灰などの高価なコモディティの問屋が数軒。呉服屋のようなBtoCの業種で100年以上続いたのは、少なくとも田中氏のデータでは三井家のみでした。

どうやら、私たちが今まで抱いていた「江戸の商人」のイメージを刷新する必要があるようです。

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