はじめに
ことわざや慣用句の世界には「宝」という言葉がよく登場します。ぱっと思いつくところでは《宝の持ち腐れ》。この表現に登場する「宝」とは、狭義には「経済的価値」を示しているとも言えますし、広義には「何か役に立ちそうな物事」を示しているとも言えます。例えば「技量」でしょうか。せっかく外国語を喋れるという技量を持っているのに、外国に行ったことがないという状況も《宝の持ち腐れ》と言えそうです。
このようにことわざに登場する宝物は、単純な経済的価値だけではなく、何か別のものを表すこともあります。そこで本稿では「宝が登場することわざ」を取り上げてみましょう。紹介することわざから、日本語の世界観における「宝物」の姿が見えてくるかもしれません。
経済的価値を意味する「宝」
本題の前に、まず「経済的価値」を表す事例を紹介しましょう。
例えば《富は一生の宝》は、そのまま、財産は一生の宝物であることを意味しています。ただしこのフレーズには続きもあります。その続きについては、後ほど紹介することにしましょう。もうひとつ《宝は身の差し合わせ》ということわざもあります。これは財産を持っていれば、急場に身を救う存在になることを意味します。これも宝=経済的価値という構造です。
ただ経済的価値を意味することわざのなかには、宝を通じて何かを「いましめる」構造の表現もあります。例えば《隣の宝を数える》、《人の宝を数える》も、戒めのことわざたち。これらは、なんにも役に立たない無駄な行為をいましめています。
また《財宝は地獄の家苞(いえづと)》ということわざもあります。家苞とは、家に持ち帰るおみやげのこと。したがって、地獄の家苞とは「地獄への手土産」ぐらいの意味になるでしょうか。これを踏まえて全体を解釈すると「この世で蓄えた財産も、ひとたび死ねば、地獄の手土産にしかならない」となります。これは蓄財の虚しさを語ったことわざなのでしょう。
ともあれ、ことわざに登場する「宝」の中には、ストレートに「経済的価値」を語ったものも確かに存在するのです。
命こそ宝
さて、ここからは経済的価値「以外」の宝のお話です。まずは「命こそ宝」と語る諺について紹介しましょう。
例えば《命に換える宝なし》、《命に過ぎたる宝なし》、《命は宝の宝》ということわざがあります。これらはいずれも「命は何よりも尊い」ということを語っています。
またこれに似た表現に《命は法(ほう)の宝》ということわざもあります。ここで登場する法とは仏法(ぶっぽう)、すなわち仏の説く教えのこと。つまりこのことわざは、ありがたい仏の教えを聞くことができるのも命あればこそ、と言っているのです。
さらには《身にまさる宝なし》、《人間一人は世の宝》ということわざもあります。これらも「身体より大切なもの、命より大切なことはない」という意味を表します。
そういえば沖縄にも《命(ぬち)どぅ宝(たから)》という表現がありますね。反戦活動などでよく登場する表現です。これを標準語で言い換えると「命こそ宝」。やはり命を「宝」と位置づけた表現となります。