はじめに

ジョン・ローはなぜ稀代の詐欺師と呼ばれたのか

お金の本質は、貴金属と交換できることではありません。みんながお金の価値を信じているからこそ、お金には価値があるのです。

1671年生まれのジョン・ローは、このことにいち早く気付いた人物です。

彼はスコットランドの金属細工師の息子として育ちました。それなりの財産を受け継いだようですが、生来のギャンブル狂で女好きだった彼は、あっという間にそれを使い果たしました。17歳になると祖国を離れ、隣国イングランドのロンドンに移り住みました。とある女性をめぐって決闘を行い、相手を殺してしまい、死刑判決を受けます。ところが脱獄に成功。オランダのアムステルダムに移り住みました。

これだけでも小説が一本書けそうなぐらい濃い人生を歩んだ男です。しかし、これは彼の前半生にすぎません。

以前の記事にも書いた通り、オランダはいちはやく株式会社を発明した国です。ジョン・ローが流れ着いたころには、アムステルダムの証券取引所では日夜盛んに取引が行われていました。彼はここで、当時における最新の金融知識を学びました。

また、当時のヨーロッパには「企画屋(プロジェクター)」という職業がありました。王族や政府の抱えた問題について、解決策を提案してお金をもらう仕事です。アムステルダムを後にしたジョン・ローは、パリ、ジェノバ、ヴェネチアなどヨーロッパ各地を巡り、最終的に体よくスコットランドに戻ることに成功しました。この頃には、ジョン・ローは立派な企画屋の一人になっていました。

彼が戻って間もなく、スコットランドではイングランドとの合併が検討されるようになりました。ジョン・ローにとっては死活問題です。もしも両国の合併が成立したら、ロンドン時代の罪で絞首台に送られてしまいます。そこで彼は独創的な財政改革案を練り上げ、スコットランド議会に提案しました。自分の改革案を取り入れさえすれば、イングランドと合併せずともスコットランドの経済を守れるはずだ、と――。

残念ながら彼の提案は却下され、スコットランドとイングランドは連合王国の樹立に向かっていきます。一方、ジョン・ローはブリテン島を離れ、再び大陸側に渡りました。そしてことあるごとに、貴族や政府高官と面会して自分のアイデアを売り込みました。トリノでもヴェネチアでもいい。スコットランドが無理でも、どこか小国なら自分の企画を受け入れてくれるかもしれない。そう考えたのでしょう。

10年後、ついにジョン・ローのアイデアを受け入れる国が現れました。

意外にも、それは当時のヨーロッパで最大の王国フランスでした――。

次回の記事では、ジョン・ローの奇策をご紹介します。彼のアイデアはあまりにも時代を先取りしすぎており、あまりにも荒業で、稀代の詐欺師という悪名を後世に残すことになりました。彼の施策はフランス社会に深い傷跡を残し、革命への遠因ともなりました。

彼はいったい何をしでかしたのでしょうか?

■主要参考文献■
フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』東洋経済新報社(2015年)
ニーアル・ファーガソン『マネーの進化史』ハヤカワノンフィクション文庫(2015年)

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