はじめに
ジョン・ローが実行した次の一手
王室銀行の成功で名を成したジョン・ローは、次の計画に着手しました。
フランス政府の抱えた公的債務を解消し、また国の経済に寄生している金持ちどもを一掃する改革に着手したのです。
1717年、彼は「西方会社」という企業を作る許可をオルレアン公から得ました。さらに、当時はフランスの植民地だったルイジアナの開発権を入手しました。当時のルイジアナは開拓の難しい沼沢地であり、ミシシッピ川の周辺には手付かずの原野が広がっていました。にもかかわらずジョン・ローは、そこを地上に現れたエデンであるかのように喧伝しました。フランスに莫大な富をもたらす約束の地であり、西方会社は必ずや大きな利益を上げるはずだ、と。
そのうえで、西方会社の株式をフランス政府の公的債権と交換するように呼び掛けました。国債をいくら持っていても、わずかな利子を受け取れるだけ。だったら、西方会社の配当を目当てに交換したほうが得である――。そう考えたフランスの人々は、喜んで政府への債権を手放しました。募集額を大幅に上回る応募がありました。
莫大な資金を集めた西方会社は、今度はM&Aに走りました。フランス領での交易権を持つ企業を、かたっぱしから購入していったのです。
1719年半ばまでに、ローの会社はフランスの主要な株式会社をすべて飲み込んでいました。名前をインド会社に改めましたが、世間からは「ミシシッピ会社」の愛称で呼ばれていました。
ミシシッピ会社バブル
そしてジョン・ローは、計画の最終段階に着手しました。ミシシッピ会社が、フランスの間接税をすべて徴収する権利を獲得したのです。いまやフランスの貿易も、徴税も、すべてをミシシッピ会社が握っていました。フランスの経済そのものが、ミシシッピ会社の収入源になった――というより、ミシシッピ会社の経営状況そのものが、フランス経済とイコールで結ばれるようになったのです。
(少なくとも表面上は)盤石な収入源をミシシッピ会社に与えたうえで、ジョン・ローは政府の債務残高をすべて買い取ると発表しました。そのための膨大な資金を調達するため、ミシシッピ会社は大量の新株を発行しました。身分の上下を問わず、フランス人も外国人もミシシッピ会社の新株を購入できました。
ジョン・ローの発表は、熱狂的なブームを巻き起こしました。
1719年5月には約500ルーブルだったミシシッピ会社の株価は、8月初旬には約2,750ルーブル、8月末には4,100ルーブル、9月には5,000ルーブル……と値上がりしていきました。12月には1万ルーブルを突破しました。ルイジアナの開拓事業はほとんど画餅にすぎなかったにもかかわらず、人々は狂ったように株を買いあさりました。ミシシッピ会社の株式は、典型的なバブルに陥ったのです。
一方で、政府の債務は綺麗さっぱり解消されました。
1720年1月、ジョン・ローはフランスの財務総監に任命されました。数週間後にはミシシッピ会社と王室銀行が統合され、彼の威光は頂点に達しました。