はじめに
公的サービスの運営費用などをまかなうために国民が負担する税金は、そのかけ方次第で国のあり方は変わり、実際に税金によって歴史が大きく変動したこともあります。
そこで、元国税調査官の大村大次郎 氏の著書『世界を変えた「ヤバい税金」』(イースト・プレス)より、一部を抜粋・編集してイギリスの「海賊税」などを紹介します。
イギリスを繁栄させた「海賊税」
近代世界史において、その主役とも言える国がイギリスです。しかしイギリスは、初めから大国だったわけではありません。中世までは、ヨーロッパの辺境国程度の存在感しかありませんでした。
そんなイギリスは、16世紀のエリザベス女王の時代に大躍進を遂げます。そして、この大躍進の原動力となったのが、実は海賊なのです。
海賊との関わりは、イギリスにとっては黒歴史とも言えるものです。そのため歴史書にはあまり詳しく書かれていませんが、近代イギリスの台頭は、海賊を抜きにしては語れません。
エリザベス女王以前のイギリスは、毛織物をドイツなどに輸出して財政のやりくりをしていました。しかし大航海時代、状況は一変します。
きっかけは、コロンブスによる大西洋の横断です。発見されたアメリカ大陸のポトシ銀山からは、銀が大量に産出されました。これによってヨーロッパにおける銀の価格は大暴落し、銀輸出を主な産業にしてきたドイツは大ダメージを受けます。
イギリスからドイツへの輸出も振るわなくなり、結果、イギリスも財政難に陥りました。エリザベス女王は、苦肉の策として「海賊行為」を行うことにしたのです。
当時、イギリスが利用した海賊は、「私掠船」と呼ばれていました。私掠船とは、政府の許可を得て、敵対国の積み荷などを奪う船を指します。
イギリスは、海賊船に対して「私掠船」の承認を与える代わりに、略奪品の5分の1を国庫に納める義務を課しました。しかし逆に言えば、略奪品の5分の1という「海賊税」を払えば、略奪は国家の了承済みのことになったのです。
そのため、腕力に自慢のある海の男たちはこぞって海賊になりました。映画にもなった「カリブの海賊」も、この流れで生まれたものなのです。
さて、略奪の対象となったのは、当時イギリスと複雑な関係にあったスペインです。
中世ヨーロッパでは、各国の王室の間で婚姻が頻繁に行われていました。親戚同士になることで、国家同士の結びつきを深めたのです。が、「共存共栄」は建前に過ぎず、国同士がライバル関係になれば、王室同士も敵対することになります。エスカレートしたときには、血が近いぶんだけ確執は激しくなりました。
当時のスペインとイギリスは、強国同士のライバル争いのほかに、もう一つ大きな問題を抱えていました。それが、「カトリックとプロテスタントの争い」です。
スペイン王室はがちがちのカトリックであり、カトリックの砦を自認していました。
一方、イギリスではプロテスタントが力を増していました。エリザベス女王自身もプロテスタントだったのです。国内のカトリックを迫害することはなかったものの、プロテスタント寄りの国政が行われていました。
こうした宗教上の問題もあり、スペインとイギリスは、表面上は友好を装いながら、内心では反目し合っていました。そのため、イギリスのプロテスタントの海賊が、カトリックであるスペインの船を襲うことも多々あったようです。
当時の国際海運において、海賊行為は半ば公然と行われていました。16世紀半ば、イギリス海峡には約400隻の海賊船が横行していましたが、その中にはフランスの船もあったと言われます。イギリスだけではなく、どの国も多かれ少なかれ、海賊行為をしていたのです。
1587年に行われた、エリザベス女王主導によるキャプテン・ドレイクの海賊航海は、約60万ポンドの収益をイギリスにもたらします。エリザベス女王は、そのうち約30万ポンドを手にしたそうです。これは当時のイギリスにおいて、国家財政の1年半ぶんにも及びました。こうして海賊税がもたらす莫大な税収は、イギリスが大躍進を遂げる要因となったのです。